文化の日/阿武山古墳に眠るのは藤原鎌足!  | ☆ sweet home ☆

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昭和21年11月3日、平和と文化を重視した日本国憲法が公布
されたことを記念して「自由と平和を愛し、文化をすすめる」
国民の祝日に。
戦前は明治天皇の誕生日だったことから「明治節」でした。
 
1946(昭和21)/11/3
1&9&4&6&1&1&3=25 
1852年11月3日 明治天皇誕生日
1&8&5&2&1&1&3=21
25&21=46
 

昭和2年(1927年)に「明治節」の名称で祝日となりました。

明治22年(1889年)211に大日本帝国憲法を公布、

天皇の絶対化、神格化の集大成として天皇大権を明記して

立憲君主制国家の確立の基礎を固めました。

 

1&9&2&7=19
 

阿武山古墳に眠るのは藤原鎌足! 最新の画像解析でほぼ確定

阿武山古墳

 

大阪府高槻市と茨木市にまたがる阿武山(標高280.9m)の中腹、

標高210mの尾根上に築かれた7世紀末頃の古墳が、阿武山古墳

(あぶやまこふん)。昭和9年、京都帝国大学の地震観測施設

建設の際に偶然発見された古墳で、埋葬された人物は藤原鎌足

(ふじわらのかまたり)ではないかと目されています。

古墳には盛土がなく、幅2.5mの浅い溝を直径82mの円形に配して、

墓域を区画しています。
中央の墓室からは漆で麻布を何枚も貼り固めた夾紵棺(きょうちょ

かん=古墳時代末期に、限られた貴人に用いられた乾漆棺)が出土。
棺内からは、きらびやかな錦をまとった60歳ほどの男性の遺体が

見つかっています。

藤原鎌足は、大化の改新の中心人物で、大化の改新後も中大兄皇子

(天智天皇)の腹心として活躍し、藤原氏繁栄の基礎を築いています。
中臣氏の一族で最初は中臣鎌子(なかとみのかまこ)を名乗って

いましたが、その後、鎌足に、そして藤原を名乗ったことで、藤原氏

の祖となっています。

天智天皇8年(669年)10月、山科の御猟場に狩りに行った際、

落馬して背中を強打、天智天皇が見舞った際に、「生きては軍国

に務無し」と朝鮮半島での白村江の戦い(はくすきのえのたたかい

=百済復興を目指す日本・百済遺民の連合軍と唐・新羅連合軍との

間の戦争)に貢献できないことを嘆いたと伝えられています。

天智天皇から大織冠を授けられ(大化の改新後定められた冠位制で

最高の冠位ですが、実際には藤原鎌足だけお冠位です)、内大臣に

任ぜられ、藤原の姓を賜った翌日に没しています(56歳)。

こうした藤原鎌足の史実と、阿武山古墳被葬者の亡くなる数ヶ月前

に肋骨などを折る事故、高貴な金糸で刺繍した冠帽というX線写真

の内容と一致していることがわかります。

 

2024年10月19日には、牟田口章人(むたぐちあきと)・帝塚山大学

客員教授が最新の画像解析から棺に「大化改新」の際に定められた

2種類の冠が副葬されていたことなどを奈良文化財研究所の附属機関

「飛鳥資料館」(奈良県明日香村)で行なわれた特別講演会『大織冠

・藤原鎌足に迫る―史跡・阿武山古墳の新事実』で発表、被葬者は

大化の改新の功労者である藤原鎌足の可能性がさらに高まりました。

復元された玉枕と冠帽が飛鳥資料館にも寄贈され、見学が可能です。

 

 

 

 

 

 

阿武山古墳は、阿武山の中腹・標高約210メートルの尾根上

にあります。昭和9年、京都大学の地震観測施設建設のさい

に偶然発見されました。

阿武山古墳全景画像
阿武山古墳全景 中央の木立の下に墓室がある

この古墳は盛土がなく、尾根の小高いところを幅2.5メートル

の浅い溝を円形にめぐらせ、直径82メートルの墓域を区画

しています。
中央に花崗岩の切石と部厚い素焼きのタイルを組み上げ、

内側をしっくいで仕上げた墓室があり、漆で麻布を何枚も

貼り固めた夾紵棺(きょうちょかん)が安置されていました。

復元された冠帽と玉枕

棺内には、銀線で青と緑のガラス玉をつづった玉枕(たままくら)

を用い、きらびやかな錦をまとった60才ほどの男性の遺体が

ありました。
これらは元どおり埋め戻されましたが、当時撮影されたX線

写真などの分析から、男性は亡くなる数ヵ月前に肋骨などを

折る事故に遭っていたことや、金糸で刺繍した冠帽(かんぼう)

をそえてあったことがわかっています。
葬られた人物は、『多武峰略記』が安威山に埋葬したと伝える

大織冠・中臣(藤原)鎌足とする説が有力です。

 

 

 
 

中大兄皇子らを支えて権臣・蘇我氏を排除し、大化の改新

進めた功労者は、中臣鎌足ですね。中臣鎌足は死に臨んで

中大兄皇子(天智天皇)からそれまでの功労に報いる意味で、

新たに「藤原」の姓を与えられました。

藤原氏の権力掌握は、古代における蘇我氏が好んだ暗殺の

ような血生臭さは無かったものの、陰湿な謀略でした。

代表的な事件を2つあげてみます。

安和(あんな)の変 有力貴族と成人天皇を蹴落とす

こうして謀略によって朝廷の実権を握った藤原北家でしたが、
藤原家の摂関政治において最も栄えたのは、藤原兼家の子で
ある五男・藤原道長の時代でした。兼家の嫡男・道隆や先
ほど述べた寛和の変で花山天皇を騙した三男・道兼らの兄弟
が病により倒れたのち、藤原北家の権力を一手に引き継ぐ
ことになります。
 

藤原北家が天皇家と婚姻関係を結び、政治の実権を握ったのは

分かりました。しかし、彼らの強みは政治だけではありませんでした。

荘園。これは彼らの私有地です。ここで生産される農産物は

朝廷の管理する公地ではなく、あくまで私有地として国の税収

の対象とはなりません。開墾した土地はすべて開墾者の物と

するという墾田永年私財法が制定されて後、貴族たちは人を雇い、

自分たちの財産として積極的に開墾を進める一方、地方の開墾者

から有力貴族・有力寺社へ寄進されるケースも増えていきました。

さらには、朝廷から各地の令制国に派遣された国司の不正や癒着

などにより、以下のような特権が付けられた私有地も。

 

これらの特権を持った荘園の存在とその増加は、次第に朝廷の

財政を圧迫していくことになります。

しかし物事には表裏一体で、デメリットがあればメリットもあるもの。

これらの特権を使って集められた富をもとに、後世において

国風文化」と呼ばれる独特の文化が花開きます。

 

・国風建築   
   寝殿造という独特の様式で建てられた日本建築。
   藤原道長の建てた法成寺、その子・頼通の建てた平等院鳳凰堂が有名。

・彫刻
   木をパーツにして組み立てる寄木造の技を編み出した定朝と、その

   作品である平等院阿弥陀如来像

・国風文学と仮名文字
   宮中に入った藤原氏の娘など皇后のそば近く仕える女官・女房たちは、

   中流貴族たちの子女であり、その教養力の高さは、紫式部清少納言

   などの女流作家を生み出す一方、彼女らの間の文通で日本独自の文字

   である仮名文字が広まる。