国宝 興福寺五重塔について

 興福寺は、『宝字記』によると、天智8年(669)に藤原鎌足

の夫人であった鏡女王が、夫の病気の回復を祈願するために、

堂舎の建立を夫に再三願い出て許しを得て建立を果たしたと

されております。

 山科にあったので「山階(やましな)寺」と呼ばれており

ましたが、この寺がのちに近江から飛鳥に遷都され、さらに

平城遷都に際して再度平城京に移建されて興福寺と改称された

と伝えられております。

 五重塔の創建は天平2年(730)光明皇后の発願によるものと

され、創建以来、度々雷や兵火、類焼による火災に見舞われ、

5度の罹災と再建を経ております。応永33年(1426)のものが

現在の建物となっております。塔の高さは、50.937mで、

奈良県内で1番高い建物です。

 修理は奈良県が興福寺より受託し、文化財保存事務所興福寺

出張所が直営にて調査と工事を実施します。

修理期間

 令和4年(2022)6 月~令和13年(2031)3月

 

 

2&5&3&3=13

5&9&3&7=24・・・2&4=6

13&24&1=38・・・3&8=11

 

 

昨年から工事中とのことで五十塔が観れないかと思って

ましたが、1階部分は工事の足場が組まれていましたが、

外から見ることができましたよニコニコ

 

五十塔

 

創建当初の高さは約45mで、各層には水晶の小塔と無垢浄光陀羅尼

経 (むくじょうこうだらにきょう)が、また層には四天柱の各方向、

東に薬師浄土変、南に釈迦浄土変、西に阿弥陀浄土変、北に弥勒

浄土変が安置されていたと言われ、当時日本で最も高い塔でした。

 

 

 

東金堂

中金堂 享保2年(1717)の消失以降、2018年に再建

 

中金堂

710年に藤原不比等が建立しましたが、度々火災で焼失。
2018年に中金堂が復活しました。300年ぶりです!

研究や様々な調査を経て、建築様式や大きさを忠実に再現

したものです。
眩しい朱色に、立派な社殿!目立つので自然と視界に入って

きます。ご本尊は釈迦如来坐像(しゃかにょらいざぞう)。
運慶が作った木造四天王立像(鎌倉時代/国宝)も見どころです。

 

 

一番の見どころと言えば八部衆像の一つ「阿修羅像・あしゅらぞう」

ですね!
国宝・八部衆立像の一つで、734年(奈良時代)に作られました。

八部衆(はちぶしゅう)とは仏法や仏教徒を守る神であり、

釈迦如来の眷属・けんぞく(部下)です。
もとは古代インドの神様で、それぞれがいろんなお姿をして

いらっしゃいます。

 

 

 

国宝館(もと食堂のあった場所)


 

なんと言っても、阿修羅像を見たかったのです~~

昔NHK「阿修羅のごとく」というドラマがあって、

ストーリーはたいして覚えていないのですが笑い泣き

阿修羅像を見たいな~と長年思ってました音譜

 

 

 


 

八部衆はインド神話に登場する神々で、仏教に帰依してその守護神
になった。西金堂の八部衆像のうち、阿修羅・五部浄・、沙羯羅
・乾闥婆の4躯が少年象であることが注目され、そこには発願者の
光明皇后の考えが反映した可能性がある。再四の火災にもかかわらず
8すべてが奇跡的に現存する。いずれも15キログラム前後という
軽さが幸いしたのであろう。ただ、五部浄像だけは上半身にみが
残り、以下が失われている。(パンフから)
 

 

 

興福寺の阿修羅像を作らせたのは、光明皇后(こうみょうこうごう)

です。聖武天皇のお后で、711年に母親を亡くした時に弔(とむら)

いのために西金堂(さいこんどう)を建て仏像を安置しました。

本尊は、釈迦如来像で、周りを十大弟子と八部衆が守ります。
阿修羅像は、この八部衆の一体として作られました。

実は、光明皇后、母親を亡くす直前に、生後間もない子供を亡くして

います。聖武天皇、光明皇后の悲しみは、相当深かったと思われます。

実は、興福寺の八部衆、この阿修羅以外の像も、まるで子供の様な姿

なんです。

恐らく・・・・

光明皇后が息子の死をいたんで、子殿の姿の仏像を依頼をしたか
または光明皇后の気持ちを考え、誰かが、その様に作らせた

そう思えてなりません。

阿修羅像の顔自体が、光明皇后の顔を映しているのではないか?
という説もあります。

https://kenyu.red/archives/2355.html

 

 

 

 

千手観音菩薩立像、銅造仏頭、阿修羅像の八部衆立像など

見ごたえ満点でしたにっこり

 

奈良八重桜

南大門跡から、中金堂をカメラ撮りました~

南大門跡後方には、猿沢池から五十二段の石段があります。

ちなみに、東大寺・二月堂も五十二段でしたよ。

 

 

高さ:19m

 

猿沢池

池に映っているのが五重塔(左側)です~

 

南円堂

 

「春の日は 南円堂に かがやきて 三笠の山に 晴るるうす雲」

  • 真言:おん はんどま だら あぼきゃ じゃやでい そろそろ そわか

 

ご本尊(ご真言)不空羂索観音

手に縄(羂索)を持っていて、その縄で迷える人を”確実に救う”

と言われてるよ。西国三十三所でまつられているのは興福寺

 南円堂のみ詳細はこちら

813年 藤原冬嗣(ふゆつぐ)によって南円堂が建てられる
1189年 ご本尊の不空羂索観音(国宝)が完成。

 

 

 

 

 

中央の不空羂索観音(ふくうけんさくかんのん)の八本の手の持物

や、周縁部に剣先形(けんさきがた)の装飾板を巡らす光背の特殊

な形式、周囲に配される四天王(してんのう)の姿形や持物の特徴

から、興福寺南円堂(こうふくじなんえんどう)安置の諸像を描いた

ものと考えられる。不空羂索観音がまとう条帛(じょうはく)は、

端に鹿の頭部を表すなど鹿皮(ろくひ)として描かれており、鹿を

乗り物とする春日大社(かすがたいしゃ)第一殿の祭神・武甕槌命

(たけみかづちのみこと)との同体を強調した表現だろう。貴族

好みの優美な表現を色濃く残す平安末期から鎌倉初期の作とみら

れる本品は、興福寺南円堂本尊が春日神と結びつけて信仰される

ようになる初期の作例として貴重である。

https://www.narahaku.go.jp/collection/1264-0.html

 

 

(Wiki)

日本では臂(額に縦に一目を有する)とする像容が

通例で、立像、坐像ともにある。胸前で手が合掌し、手は

与願印を結ぶ。その他の手には、羂索や蓮華・錫杖・払子を

持す。代表作としては、東大寺法華堂(三月堂)本尊の立像

(奈良時代、国宝)や、興福寺南円堂本尊坐像(鎌倉時代

康慶作、国宝)があげられる。

 

 

一&三&八=12

二&二&四=8

12&8=20(1 1)

 

 

 

南円堂の横にある藤棚見っけビックリマーク

興福寺は藤原家の氏寺で、春日大社も藤があり藤原家に

まつわる場所は藤があるのかもしれませんよね~~🤔

 

手水舎

絵馬

北円堂

 

【訪問地】興福寺
【所在地】奈良市登大路町48番地

 

奈良県庁

👆

木の後ろに見えるのが奈良県庁舎

4本の塔 鹿を現しているとかはてなマーク

 

奈良県庁

 

 

 

そういえば、しかまろくんは2013年5月からの

キャラクターだそうです~~

しかまろくん

 

神鹿 (春日大社)

現在、奈良公園を中心とした地域に約1300頭の鹿が生活しています。

ご祭神

武甕槌命タケミカヅチノミコト様、経津主命フツヌシノミコト様、

天児屋根命アメノコヤネノミコト様、比売神ヒメガミ

 

 

 

建御雷神(タケミカヅチ)は茨城県の鹿島神宮の祭神で、

一般には「鹿島さま」と呼ばれて広く親しまれています。

鹿島神宮から直線距離にして十数キロの隣地に祀られる

千葉県の香取神宮の祭神、経津主神(ふつぬしのかみ)と

並び称される剣の神、武神としても知られています。

建御雷之男神は、古事記では大国主神(オオクニヌシ)

国譲りの場面に登場します。

高天原の主神である天照大御神(アマテラス)から特命を

受けて、天鳥船神(あめのとりふねのかみ)とともに葦原

中国に遣わされます。そこで、国譲りに最後まで抵抗

した力自慢の国津神で、大国主神の御子である建御名方神

(タケミナカタ)をみごとに打ち破ります。さらに信濃の

諏訪まで追いかけ、とうとう服従させることに成功します。

つまり建御雷之男神は、葦原中国の征服を画策する天津神

たちの切り札だったのです。

藤原氏が、一族の氏神として建御雷之男神武甕槌神

勧請した地に祀られた社が、のちに春日大社となりました。

 

 

 

 

1892年(明治25年)の鹿園竣工奉告祭(ろくえんしゅんこう

ほうこくさい)でラッパを使って行ったのが始まりです。

鹿寄せではナチュラルホルンを吹き、鹿をその音色によって

森の奥から飛火野(とびひの)に集めます。ナチュラルホルン

ではベートーヴェンが作曲した「田園」などが奏でられるそう

です。集まった鹿にはごほうびにドングリが与えられます。

鹿は春日大社(かすがたいしゃ)の祭神・武甕槌命(たけみか

づちのみこと)が鹿島から白い鹿に乗ってきたとされること

から春日大社のお使い(神使)とされています。

ちなみに奈良公園は総面積約502ヘクタールです。東大寺

・興福寺・春日大社なども含めると南北約2キロメートル

・東西約4キロメートルで、総面積約660ヘクタールにもなります。

 

 

飛(9)火(4)野(11)=24

「田(5)園(13)」=18

24&18=42・・・4&2=6

5&2&2&4&6&6=25

奈(8)良(7)公(4)園(13)=32

42&25&32=99(11×9)

 

 

 

 

 


 

神鹿は、本当におじぎしてましたヨニコ

鹿園は閉鎖中でした~~

ただし、以前行った諏訪大社では御頭祭があります。

 

諏訪大社本宮

ご神体は守屋(モリヤ)山。謎の多いミシャグチ信仰。

 

創建は不詳ですが、古事記ではご祭神の建御名方神(たけみなかたのかみ)

が出雲で国譲りに反対し諏訪にやってきて国を築いたとあり、日本書紀

では持統天皇が諏訪大社に勅使を派遣したと記されています。

ご祭神建御名方神(たけみなかたのかみ)八坂刀売神(やさかとめ

のかみ)を祀っています。

上社建御名方神(彦神)を、下社八坂刀売神(女神)主祭神として

います。

 

 

 

 

『古事記』の国譲り神話では、建御名方命は建甕槌命との戦い

に敗れて諏訪に逃れ、二度とこの地を出ないことを条件に死を

免れます。この神話から、古代の諏訪は外の権力が及ばない

聖域であり、御柱は結界を張るための標識だったのではないか、

と想像する学者もいます。

 似たような例が、外国にあります。朝鮮半島には蘇塗(そと)

 (※注2)という聖地に柱を立て、そこに鈴や太鼓を吊るして

鬼神を祀る風習があったことが、『魏志』馬韓伝に記されています。

さらに視野を広げてみると、世界各地には「世界は四本の柱に

よって支えられている」という神話が見られます。

 

 

 

 

 

春日大社の御祭神である武甕槌神が、国譲りの征伐を機に

訪れた出雲と諏訪、そして鹿島の地とも深く結び付いて

いることを理解することは、諏訪、鹿島、出雲という3つ

の聖地の繋がりだけでなく、武甕槌神を祀る春日大社の

背景を見極める上でも重要です。

「春日権現験記絵」の序章には、武甕槌神が天下って平定し、

鹿嶋へ移られ、その後、神護景雲2年(768)春、法相宗を

擁護するために御笠山に移られたことが記載されています。

この序章の文は不思議な点が多く、例えば武甕槌神が天下った

のは神代のことであり、「御笠山に移られた」768年とは

大きな時代の隔たりがあります。また、御笠山への移動は

藤原氏による武甕槌神の勧請を意味し、ご自身が生存中の

出来事に関する記述ではないこともわかります。

鹿島と諏訪は同緯度となるレイライン上で結び付いていたのです。

鹿島神宮の神鹿に由来する鹿を通じて、鹿島神宮と春日大社は

固く結び付くことになります。

藤原氏にとって、一族の存在そのものを建国の神々に結び付け、

世間一般に周知させることが重要視されました。また、奈良は

列島の中心に位置することから、聖地同士を結ぶ多くのレイ

ラインが交差する地点でもあり、地の力と一族の権威を示す

拠点を造営するには、最適な場所でもありました。

春日大社の創始に深く関わる鹿島神宮のレイラインも覚えておく

必要があります。諏訪大社と同緯度に存在する鹿島神宮と富士

山頂を結ぶ線は、鹿児島県の中甑島ヒラバイ山を通ります。

鹿島神宮のレイライン

 

 

 

 

守屋山の「モリヤ」という山の名前は、アブラハムが子供を

捧げる為にイサクと一緒に登った山の名前と同一です。また、

ミシャクジ神の「ミシャク」は「イサク」という名前に由来

するという説も長年流布されています。

 


 

鹿島と鹿児島は東と西。字も一文字違いですよね~~
児は子どものこと。日本の地名は奥が深いですね上差し
現在は、剝製の鹿を頭捧げるそうです。
御頭祭「御杖柱」

 

「御頭祭」は別名、「ミサクチの祭り」とも言われ、毎年

十五日に行われている。(中略)この祭りの内容を

簡単に記すと、「少年が『御贄柱(おにえばしら)』に縄

で縛られ、神官が小刀で少年を切りつけようとすると、

使者が現れ神官を止め、少年は解き放たれて命が救われる」

というお話だ。そして少年の代わりに鹿七十五頭を燔祭と

して捧げ、その首を神殿に供えたのだ。

 

三月の酉の日(現在は四月)に行われる御頭祭の神事のとき、

諏訪大社前宮の間廊では猪、鹿の頭七十五、本膳七十五

御神酒七十五樽を神前に供える。

 

 

四&十五&七十五=94・・・9&4=12(6 6)

四&十五&五(現在)=24・・・2&4=6

十&七十五&七十五&七十五=235・・・2&3&5=10(5 5)(11×5)