東大門(奈良時代) 三棟造り

 

 

東院伽藍

四脚門

 

夢殿前の取水舎 鳥

 

 

特別開扉

夢殿 秘仏・救世観音菩薩立像

開催期間:11日~18

4&1&1&5&1&8=20(1 1)

 

夢殿(奈良時代)

西暦601年に造営された斑鳩宮跡に、行信僧都という

高僧が聖徳太子の遺徳を偲んで天平11年(739)に

建てた伽藍を上宮王院といいます。その中心になる建物が

夢殿です。(パンフから)

 

ちょうど、特別開扉シーズンだったため、夢殿 

秘仏・救世観音菩薩立像を見ることができましたニコニコ

 

 

 

 

救世観音菩薩立像:太子等身大 約180cm

長い間秘仏として人々の眼から閉ざされてきたが、1884年

美術研究家のフェノロサ(アメリカ)や岡倉天心により開扉された。

(パンフから)

 

 

東院鐘楼(鎌倉時代)

 

中宮寺

別料金ですが、せっかく奈良まで来たので拝観しましたにっこり

 

 

 

聖徳太子とその母・穴穂部間人皇后ゆかりの尼寺

 

 

 
中宮寺の見所

菩薩半跏像(国宝)
中宮寺の本尊とされるこの像は、「考える像」で有名で、

飛鳥時代の彫刻の最高傑作ともいわれています。アルカ

イック・スマイルの典型として高く評価され、エジプト

のスフィンクス、レオナルド・ダ・ヴィンチ作のモナリザ

と並んで「世界の三つの微笑像」とも呼ばれています。

 

天寿国曼荼羅繍帳(国宝)
日本最古の刺繍遺品として知られる「天寿国曼荼羅繍帳」は、

聖徳太子の妃である橘大郎女が、太子崩御されたのち、太子

が往生なされている天寿国のありさまを、刺繍で表現させた

ものです。現在あるものは、鎌倉時代に入って信如比丘尼が

復元されたものになります。展示されているのは複製品で、

実物は奈良国立博物館にて見ることができます。
 

本堂
高松宮妃殿下の御発願により昭和43年5月に完成しました。

本堂の周りには、八重・一重の山吹が、そして四季折々の

花木が植えられ、女性らしさが表現されています。本尊、

菩薩半跏像が、安置されています。

 

 

 
天寿国曼荼羅繍帳
聖徳太子は推古天皇0年(622)御年49歳で薨御
遊ばされました。もとは二帳より成り、そこに00字
の銘文が刺繍されていて、その全文は『上宮聖徳法王』
という書物に残っております。
現在の繍帳は、飛鳥時代の原本と鎌倉時代の模本とが
貼り合わせれて、一帳にまとめられたものです。図中には
亀甲型が個残り、一個に字ずつ「帰 麻」「部間人公」
「干時多至」「皇前日啓」の文字をあらわし、『上宮聖徳法王』
に合致しております。(パンフから)
 
3&4&9&4=20(1 1)
4&4=8(4 4)(11×4)
 

菩薩半跏像(伝如意輪観音)」:斑鳩町(国宝)

「菩薩半跏像(伝如意輪観音)」:斑鳩町
 

 


 

 

 

門をくぐった所にある蘇鉄

名前の由来

学名の「Cycas(シカス)」は、「ヤシに似た植物」という

意味です。「ソテツ」という和名は、木が弱ったとき、株元

へ鉄を打ち込むと元気が戻ったことから「蘇鉄(鉄で蘇生する)」

と名付けられました。また、中国でも「鉄樹」という名前で

呼ばれています。

ソテツは、オスとメスの株が存在するので、片方の株だけでは

受粉しません。また、10年に1回花を咲かせるといわれるほど、

開花が貴重な植物でもあります。

室町時代には、海外から輸入しないと庭木にできないことから、

財力がある人の象徴として扱われていたようです。江戸時代

には、権力の象徴として大名の庭園によく植えられていました。

 

 

 

 

 

 

「中宮寺の 都い地のうち尓 しつも利天
   ささん久王の花 清ら可耳佐久」

女官長 北白川祥子謹書

 

 

 

中宮寺本殿

 

 

 

八重咲の山吹が満開でした~

山吹は実がなるが、 八重山吹は実はならない。

 

 

2023517

 

2&2&3&5&1&7=20(1 1)

 

 

 

 

 

有力者は一夫多妻が普通だった飛鳥時代

父は用明天皇、母は穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとの

ひめみこ:欽明天皇の皇女)。当時の有力者は一夫多妻が

普通で、聖徳太子も4人を妻としましたが、そのうちの3人は

推古天皇の娘と孫、そして一緒に政治を行なった豪族・蘇我馬子

(そがのうまこ)の娘でした。もう一人は奈良の斑鳩(いかるが)

を本拠地とする氏族の娘・菩岐岐美郎女(ほききみのいらつめ 

別名・芹摘姫)で、太子が斑鳩に赴いた折、芹を摘む少女に一目

惚れしたことがその馴れ初めとされます。太子の晩年は斑鳩に

通い詰め(いわゆる通い婚)、8人の子を授かっています。

菩岐岐美郎女は、太子が病に伏せると看病し、太子が亡くなる

同じ日か1日違いで他界しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

法隆寺中門右手口の取水舎

 

立派な龍で驚きました驚き

 

中門から参道の眺め

法隆寺~奈良街道 松並木


①法隆寺には蜘蛛が巣をかけない
②南大門の前に鯛石と呼ばれる大きな石がある
③五重塔の上に謙が刺さっている
④不思議な伏蔵がある
⑤法隆寺の蛙には片目がない
⑥夢殿の礼盤(お坊さんがすわる台)の下が汗をかいている
⑦雨だれが穴をあけるべき地面に穴がない。  

 

 

 


名は厩戸皇子、聖徳太子とは逝去したのちにつけられた通称である。

そして太子は、叔母である推古女帝のもとで摂政として政治の実権

を握り、数々の斬新な政策を打ち出して、古代日本の近代化に大きく

貢献したのである。
 だが、その輝かしい前半生とは裏腹に、晩年の聖徳太子には暗い影

がつきまとっていた。推古13年(605)、なぜか聖徳太子は、当時宮廷

があった飛鳥の都から遠く離れた斑鳩(いかるが)の里に宮を造って

移り住む。この斑鳩宮(現在の法隆寺の東隣)での隠棲は、聖徳太子の

政治的挫折をあたかも暗示するかのようである。
 そして、聖徳太子とその母と妻(膳夫人)の三人が、時を同じくする

かのように急死したことは、聖徳太子の失意と絶望の結果ととれなくもない。
 

 

 

 

 

 

 

法隆寺(ほうりゅうじ、旧字体:隆寺)は、奈良県生駒郡

斑鳩町法隆寺山内にある聖徳宗総本山寺院山号はなし。

本尊釈迦如来

創建当時は斑鳩寺(鵤寺 = いかるがでら)と称し、後に法隆寺

となった。法隆学問寺としても知られる[1]

境内の広さは約18万7千平方メートル。

日本書紀』によれば、聖徳太子こと厩戸皇子(用明天皇の皇子)

は推古9年(601年)、飛鳥からこの地に移ることを決意し、宮室

(斑鳩宮)の建造に着手、推古天皇13年(605年)に斑鳩宮に移り

住んだという。法隆寺の東院の所在地が斑鳩宮の故地である。

この斑鳩宮に接して建立されたのが斑鳩寺、すなわち法隆寺であった。

国宝。木造五重塔として現存世界最古のもの。

弟子集団の中の3体は、耳の無い、口先のとがった、眼のつり

あがった頭部をしており、それぞれ馬頭形、鳥頭形、鼠頭形と

よばれる。これらは十二支をかたどっているとも、薬師如来を

まもる十二神将であるともいわれる。五重塔初層内部にも壁画

(現在は別途保管、重要文化財)があった。

 

 

法隆寺(斑鳩寺)607年・・・斑鳩宮 聖徳太子

飛鳥寺・・・609年 曽我馬子

 

 

京都・太秦広隆寺の半跏像(国宝)

 

聖徳太子御火焚祭り
1122日、広隆寺。聖徳太子の命日にあたるこの日。

本堂に安置されている本尊の秘仏聖徳太子と、霊宝殿

に納められている秘仏薬師如来像が開扉される。

桂宮院(国宝)は法隆寺の夢殿に似た単層角円堂。

 

 

1&1&2&2=6(2 2 2)

11&22=33(11×3)

 

 

 

 

 

有名な「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」

作者は正岡子規ですが、実は法隆寺には行ってないことは

ご存知ですかはてなマーク私も最近知りました驚き

 

 

 

 

 

 

柿の花の花言葉は「永遠の眠り」です。

「広大な自然の中で私を永遠に眠らせて」