東大門(奈良時代) 三棟造り
東院伽藍
四脚門
夢殿前の取水舎 鳥
特別開扉
夢殿 秘仏・救世観音菩薩立像
開催期間:4月11日~5月18日
4&1&1&5&1&8=20(1 1)
夢殿(奈良時代)
西暦601年に造営された斑鳩宮跡に、行信僧都という
高僧が聖徳太子の遺徳を偲んで天平11年(739)に
建てた伽藍を上宮王院といいます。その中心になる建物が
夢殿です。(パンフから)
ちょうど、特別開扉シーズンだったため、夢殿
秘仏・救世観音菩薩立像を見ることができました
救世観音菩薩立像:太子等身大 約180cm
長い間秘仏として人々の眼から閉ざされてきたが、1884年
美術研究家のフェノロサ(アメリカ)や岡倉天心により開扉された。
(パンフから)
東院鐘楼(鎌倉時代)
中宮寺
別料金ですが、せっかく奈良まで来たので拝観しました
聖徳太子とその母・穴穂部間人皇后ゆかりの尼寺
菩薩半跏像(国宝)
中宮寺の本尊とされるこの像は、「考える像」で有名で、
飛鳥時代の彫刻の最高傑作ともいわれています。アルカ
イック・スマイルの典型として高く評価され、エジプト
のスフィンクス、レオナルド・ダ・ヴィンチ作のモナリザ
と並んで「世界の三つの微笑像」とも呼ばれています。
天寿国曼荼羅繍帳(国宝)
日本最古の刺繍遺品として知られる「天寿国曼荼羅繍帳」は、
聖徳太子の妃である橘大郎女が、太子崩御されたのち、太子
が往生なされている天寿国のありさまを、刺繍で表現させた
ものです。現在あるものは、鎌倉時代に入って信如比丘尼が
復元されたものになります。展示されているのは複製品で、
実物は奈良国立博物館にて見ることができます。
本堂
高松宮妃殿下の御発願により昭和43年5月に完成しました。
本堂の周りには、八重・一重の山吹が、そして四季折々の
花木が植えられ、女性らしさが表現されています。本尊、
菩薩半跏像が、安置されています。
菩薩半跏像(伝如意輪観音)」:斑鳩町(国宝)
門をくぐった所にある蘇鉄
名前の由来
学名の「Cycas(シカス)」は、「ヤシに似た植物」という
意味です。「ソテツ」という和名は、木が弱ったとき、株元
へ鉄を打ち込むと元気が戻ったことから「蘇鉄(鉄で蘇生する)」
と名付けられました。また、中国でも「鉄樹」という名前で
呼ばれています。
ソテツは、オスとメスの株が存在するので、片方の株だけでは
受粉しません。また、10年に1回花を咲かせるといわれるほど、
開花が貴重な植物でもあります。
室町時代には、海外から輸入しないと庭木にできないことから、
財力がある人の象徴として扱われていたようです。江戸時代
には、権力の象徴として大名の庭園によく植えられていました。
松
「中宮寺の 都い地のうち尓 しつも利天
ささん久王の花 清ら可耳佐久」
中宮寺本殿
八重咲の山吹が満開でした~
山吹は実がなるが、 八重山吹は実はならない。
2023年5月17日
2&2&3&5&1&7=20(1 1)
有力者は一夫多妻が普通だった飛鳥時代
父は用明天皇、母は穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとの
ひめみこ:欽明天皇の皇女)。当時の有力者は一夫多妻が
普通で、聖徳太子も4人を妻としましたが、そのうちの3人は
推古天皇の娘と孫、そして一緒に政治を行なった豪族・蘇我馬子
(そがのうまこ)の娘でした。もう一人は奈良の斑鳩(いかるが)
を本拠地とする氏族の娘・菩岐岐美郎女(ほききみのいらつめ
別名・芹摘姫)で、太子が斑鳩に赴いた折、芹を摘む少女に一目
惚れしたことがその馴れ初めとされます。太子の晩年は斑鳩に
通い詰め(いわゆる通い婚)、8人の子を授かっています。
菩岐岐美郎女は、太子が病に伏せると看病し、太子が亡くなる
同じ日か1日違いで他界しています。
法隆寺中門右手口の取水舎
立派な龍で驚きました
中門から参道の眺め
法隆寺~奈良街道 松並木
①法隆寺には蜘蛛が巣をかけない
②南大門の前に鯛石と呼ばれる大きな石がある
③五重塔の上に謙が刺さっている
④不思議な伏蔵がある
⑤法隆寺の蛙には片目がない
⑥夢殿の礼盤(お坊さんがすわる台)の下が汗をかいている
⑦雨だれが穴をあけるべき地面に穴がない。
名は厩戸皇子、聖徳太子とは逝去したのちにつけられた通称である。
そして太子は、叔母である推古女帝のもとで摂政として政治の実権
を握り、数々の斬新な政策を打ち出して、古代日本の近代化に大きく
貢献したのである。
だが、その輝かしい前半生とは裏腹に、晩年の聖徳太子には暗い影
がつきまとっていた。推古13年(605)、なぜか聖徳太子は、当時宮廷
があった飛鳥の都から遠く離れた斑鳩(いかるが)の里に宮を造って
移り住む。この斑鳩宮(現在の法隆寺の東隣)での隠棲は、聖徳太子の
政治的挫折をあたかも暗示するかのようである。
そして、聖徳太子とその母と妻(膳夫人)の三人が、時を同じくする
かのように急死したことは、聖徳太子の失意と絶望の結果ととれなくもない。
創建当時は斑鳩寺(鵤寺 = いかるがでら)と称し、後に法隆寺
となった。法隆学問寺としても知られる[1]。
境内の広さは約18万7千平方メートル。
『日本書紀』によれば、聖徳太子こと厩戸皇子(用明天皇の皇子)
は推古9年(601年)、飛鳥からこの地に移ることを決意し、宮室
(斑鳩宮)の建造に着手、推古天皇13年(605年)に斑鳩宮に移り
住んだという。法隆寺の東院の所在地が斑鳩宮の故地である。
この斑鳩宮に接して建立されたのが斑鳩寺、すなわち法隆寺であった。
国宝。木造五重塔として現存世界最古のもの。
弟子集団の中の3体は、耳の無い、口先のとがった、眼のつり
あがった頭部をしており、それぞれ馬頭形、鳥頭形、鼠頭形と
よばれる。これらは十二支をかたどっているとも、薬師如来を
まもる十二神将であるともいわれる。五重塔初層内部にも壁画
(現在は別途保管、重要文化財)があった。
法隆寺(斑鳩寺)607年・・・斑鳩宮 聖徳太子
飛鳥寺・・・609年 曽我馬子
京都・太秦広隆寺の半跏像(国宝)
聖徳太子御火焚祭り
11月22日、広隆寺。聖徳太子の命日にあたるこの日。
本堂に安置されている本尊の秘仏聖徳太子と、霊宝殿
に納められている秘仏薬師如来像が開扉される。
桂宮院(国宝)は法隆寺の夢殿に似た単層八角円堂。
1&1&2&2=6(2 2 2)
11&22=33(11×3)
有名な「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」
作者は正岡子規ですが、実は法隆寺には行ってないことは
ご存知ですか私も最近知りました
柿の花の花言葉は「永遠の眠り」です。
「広大な自然の中で私を永遠に眠らせて」