古代史ミステリーに迫る!

謎の渡来人・秦氏を尋ねて京都を巡ろう

記事作成日:2015/06/29

百済からの帰化人、秦の始皇帝の子孫、はたまたイスラエルから

やってきた異邦人と、そのルーツはさまざまな謎の渡来人秦氏。

建築技術、養蚕など高度な文化を持ち、平安京の造営にも深く

かかわりました。そして、聖徳太子のブレーンでもあった秦一族

ですが、いつの間にか歴史の表舞台から姿を消しているのです。

今でも秦氏については謎に包まれたまま。そんな古代史ミステ

リーを追って、京都の秦氏にまつわる史跡を巡りましょう。


東映太秦映画村で有名な「太秦」に秦氏の文字が!


太秦の地名の由来は、秦氏(秦酒公)がヤマト政権に税を納める際、

絹を「うず高く積んだ」ことから、朝廷より「うずまさ」の姓を与えられ、

これに「太秦」という文字を当てたとか、聖徳太子の「太」+秦氏の

「秦」で「太秦」にした、古代ヘブライ語の「ウズ」(光)「マサ」(賜物)

が語源であるなど諸説あります。


住宅街の中に古墳が!秦氏の首長墓と言われている

「蛇塚古墳」


こんもりと盛られたかわいらしい古墳ですが、意外と中は大きな横穴

式前方後円墳!

全長約75m、石室の全長は17.8m、玄室は奥行き6.8m、幅3.8m、高さ

5mと京都府下では、最大規模を誇る古墳。石室内に蛇が棲息し、

岩の間から出入りしていたため、「蛇塚古墳」と呼ばれるようになり

ました。この古墳が秦氏の墳墓とされています。ちなみに「天塚古墳」

(京福電鉄「蚕ノ社(かいこのやしろ)」駅下車)も秦氏一族の墓とされ

ており、秦氏の勢力を知る大きな手掛かりとされています。




広隆寺といえば口もとに微笑みを浮かべた表情のアルカイックスマ

イルでおなじみ、「弥勒菩薩像」のあるお寺です。またの名を「秦公

寺(はたのきみでら)」「太秦寺」とも言い、秦氏の氏寺。7世紀始め、

秦河勝(はたのかわかつ)は聖徳太子に仕え、聖徳太子から仏像を

賜り、そのご本尊として建立しました。お寺としては京都最古と言わ

れており、霊宝殿には弥勒菩薩以外にも聖徳太子像、秦河勝夫妻

の像も安置。秦一族の顔が少しみて取れるので、どこからやってき

た人なのか、想像を巡らせるのも楽しいでしょう。

また以前は広隆寺内にあった井戸「いさら井」。

水は禊ぎや清めのために使われることも多く、生命の維持にも欠か

せません。そんな水を湧き立たせる井戸は、聖なる場所だったので

しょうか。いさら井がイスラエルだとしたら秦氏とは…謎解きがます

ます楽しくなってきますね!


大酒神社には秦の始皇帝が祀られている!?




以前は広隆寺内にあった「大酒神社」。神仏分離令によって広隆寺

ら数百メートル離れた、現在の場所に移動しました。しかしこの神社

は広隆寺建立よりも古く、秦始皇帝の子孫功満王が大酒明神を祀っ

たことが始まりと言われています。その後、秦氏が氏神としたのだとか。

昔は「大辟(避ける)」とも書いていて災難除けや、道祖神でもあった

と言われています。

秦始皇帝、弓月王(ゆみづきのきみ)、秦酒公が本殿に祀ってあり、

秦の始皇帝の登場です!秦の始皇帝の14世の孫「功満王」は、中国

の戦乱を避けて日本にやってきました。そこで始皇帝の加護を願うた

めに立てたのが、この大酒神社です。

そして今度は功満王の子「弓月王」が大勢を率いて帰化し、天皇に

宝物を献上。さらに弓月王の孫「秦酒公」が、秦氏一族を率いて養蚕

から絹を生み出し、その他多くの技術や文化を広めて日本に貢献。

それが先ほどの「太秦」の由来へとつながったり、酒公を称えて大辟

から大酒神社へと変わった理由です。


蚕ノ社の「三柱(みはしら)鳥居」は、パワースポット!


養蚕や機織りの技術をもたらした秦氏と、いかにも関係のありそうな

名前ですよね。京福電鉄「蚕ノ社」駅を降りて徒歩5分ほど。木嶋坐

天照御魂神社の中にある「養蚕神社」の別名です。蚕養・織物・染色

神である萬機姫(よろずはたひめ)を勧請。

境内にある説明では「中央の組石は御神座で宇宙の中心を表し、4方

向から拝することができるよう建立された」とありながらも、「景教(キリ

スト教の一派)の遺物とも言われている」とありました。


三柱鳥居の三方がそれぞれ秦氏と関係のある「下鴨神社(秦氏と賀茂

氏の関係)」「伏見稲荷神社」「松尾大社」(どちらも秦氏が建立)の方向

を示しているとか、キリスト教の「三位一体」、「ユダヤ教のダビデの星

に似ている」などなど、ミステリー好きにはゾクゾクさせる逸話ばかり。

パワースポットとしても名高いので、宇宙のパワーを頂きながら、謎解

きにふけるのも面白そうです。

http://guide.travel.co.jp/article/11139/


広隆寺 聖徳太子ゆかりの京都最古の寺院


広隆寺は、真言宗御室派の寺院で、山号は蜂岡山です。蜂岡寺(はち

おかでら、ほうこうじ)、秦公寺(はたのきみでら)、太秦寺などの別称

があり、帰化人系の氏族である秦氏の氏寺であり、平安京遷都以前

から存在した、京都最古の寺院です。


講堂は柱が赤く塗られているので、『赤堂』ともいわれている。


薬師堂内に納められている薬師如来はお火焚きの日に開帳される。

宝冠弥勒半伽思惟像は、日本の仏教伝来に関する貴重な仏像で、

彫刻として国宝第一号に認定されたのも頷けます。


〒616-8162 京都市右京区太秦蜂岡町32

TEL (075)861-1461

京福電鉄太秦広隆寺駅下車徒歩約1分

http://www.kyototownmap.com/page/kohryu-temp.html


聖徳太子御火焚祭り


1122日、広隆寺。聖徳太子の命日にあたるこの日。本堂に安置

されている本尊の秘仏聖徳太子と、霊宝殿に納められている秘仏

薬師如来像が開扉される。また、午後1時より本堂にて法要後、

護摩供養が行われる。桂宮院(国宝)は法隆寺の夢殿に似た単層

八角円堂。

http://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=2&ManageCode=1000373

http://blog.ameba.jp/ucs/entry/srventryinsertinput.do


聖徳太子御火焚祭は、聖徳太子 建立日本七大寺の一つ広隆寺

11月22日(聖徳太子の命日)に行われる護摩木供養です。護摩壇

の周に張られている結界の範囲が広いので見やすいです。聖徳太

子御火焚祭が行われる当日のみ通常非公開の聖徳太子像が公開

されます。

http://www.kyotokk.com/syotokutaisiohi.html


太子自刻といわれる33歳のお姿です。確かに若く見え、旧一万円札

でお馴染みの雰囲気とは全く違います。お顔もわりとはっきりして

います。

http://flattravel.blog.fc2.com/blog-entry-37.html


着衣は、天皇が即位などの重要儀式の際に着用する黄櫨染御袍
こうろぜんのごほう)で[6] 、広隆寺では天皇より贈られたその袍を

像に着せるならわしが平安時代より現代まで続いている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/ 広隆寺



http://aquadina.com/kyoto/spot/2109/


(Wikipediaより)
法隆寺は7世紀に創建され、古代寺院の姿を現在に伝える仏教施設

であり、聖徳太子 ゆかりの寺院である。

日本書紀 』によれば、聖徳太子 こと厩戸皇子(用明天皇 の皇子)は

推古9年(601年)、飛鳥からこの地に移ることを決意し、宮室(斑鳩宮)

の建造に着手、推古13年(605年)に斑鳩宮に移り住んだという。


『隠された十字架』を巡る論争


322 - 24日 お会式 聖徳太子の命日にその遺徳をたたえる法要




「秦氏=ロスチャイルド」は日常的に虐殺と人身供養を

行っていた「秦の始皇帝」の末裔です。


今から2200年ほど前、戦国の中国を統一した秦の始皇帝は、

除福から東方海上に蓬莱など三つの神山があり、そこには不老

不死の霊薬があると言うことを聞いた。

そこで始皇帝は、その霊薬を求めるように除福に命じ、3千人の

童男童女と百工(多くの技術者)を連れ、蓬莱の島に向かわせた。

しかし、その後除福一行は二度と中国に帰らなかった。

鹿児島県 東市来町(ひがしいちき)に太秦(うずまさ)神社と

いうのがある。

この近くに冠岳(かんむりたけ)という霊峰があります。ここは古代

仏教発祥の地であり、真言密教の開祖の地としても知られている。

薬草の宝庫でもあります。

その昔、徐福が不老長寿の薬を求めてここにきたと言い伝えが

残っています。


この神社のお祭神は秦の始皇帝なのである。

付近一体には秦氏が住んでいたことが伝えられている。


熊野に渡来した除福一行は、やがて穂の国のこの地方に移り住み、

その子孫が秦氏を名乗り、菟足神社(うたりじんじゃ)を創設した。

その為、菟足神社には、日本の他の地域の農耕民族の五穀豊穣

神事とは全く違う、生贄神事が古来より行われてきた。

1000年以上も前のある日、生贄を捕まえる役目の人が待っている

と、やってきたのは他へ縁付いた自分の娘であった。

彼は、「子だが仕方ない」と娘を生贄にしたという。

やがて人身御供は、猪に代わった。

現代では、雀12羽を供えている。


http://rapt-neo.com/?p=30458




歴史は一つではないようです。聖徳太子が存在していたかどうかと

いう話題もあるので、教科書の知識は一つとして、それ以外に探す

ことも面白いですね。

これから京都へ行かれる方は広隆寺の聖徳太子像を見ることも

お薦めです(*^o^*)/~