kinocoです


今回の人生で
最大の岐路だった出来事の振り返り


前回のつづき



前回までの記事はこちら

人生の岐路① 震災の記憶

人生の岐路② 震災の記憶

人生の岐路③ 震災前の家庭

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

震災当日

一時避難させてもらっていた
お向かいさん宅から


両親と祖母は
町内の公園にある公民館へ避難

わたしと妹は
父が雇っていて仲良くしていた
市内に住む従業員のお姉さん宅へ


家族離れての
避難生活がはじまりました





父方の親戚達も
神戸市内で被災して大変な状況

母方の親戚達は
京都北部で無事だったので
食料や生活用品などを届けてくれましたが



ガスが使えない間は
食事の内容も限られていたし

断水で入浴できない日が続き
頭もかゆくなるし

肌は古い角質が溜まって
乾燥で粉をふいたようになるし

歯も十分に磨けず
口内環境も悪化したり


生活用水を汲みに行くことも
本当に大変な作業でした

水不足の状況で
トイレに行くのも躊躇して我慢してしまったり



居候させてもらっていた
お姉さん宅は古い木造アパート

余震があると不安を覚え
ぐっすり眠れない日が続きました






地震発生の2~3日後には

「 今すぐにでも働いてもらわないと
高校卒業したら
バイトでいいから働いてほしい 」

と両親から言われていました




震災で

突然状況が一変して

大学受験なんて言ってる場合じゃないのは
よくよくわかっていたけれど

どうしても
すんなり頷けない自分がいました



バブル崩壊して間もない時期に

高卒で視野の狭いまま
社会に出て働き始めることに
ものすごく抵抗がありました



居候先の

20代後半のお姉さんからは

「 高卒でしばらく働いてからでも
また後から大学受験はできるし
働いたらいいやん 」

と言われたけど



うちの悲惨な経済状況だと

一度働き出したら
後から大学受験にチャレンジするなんて
いつになるかわからない


せっかくセンター試験まで受けたのに
ここで断念して
ただただ働くなんてイヤだ

やっぱり大学には行っておきたい


そう思ったのでした





でも

今の状況だと
私立大学には合格しても通えない



そうなると

もともと第一志望にしていた
国立外国語大学へ

なんとしてでも合格するしか
道はありませんでした




高校の授業がきっかけで
イスラム世界に興味があったので

本当は
アラビア語学科に入りたかったけど
偏差値がダントツに高い学科


センター試験の結果が
イマイチだったので

そのまま
アラビア語学科で出願して
2次試験を受けたら落ちる可能性大



だったら

合格の可能性の高い言語に変更して

第一志望の大学へ入ってしまえば
その後は、なんとかなる!



そう考えて

英語以外で
世界の多くの国で公用語になっていて
発音もあまり難しくない

スペイン語学科で
2次試験に臨むことにしました




そして

水汲みやゴハン作りもしながら

昼間は
高校の誰もいない寒~い教室を借りて
2次試験への追い込み勉強

という日々を過ごし




1995年2月下旬

国立大学の2次試験を受験



1995年3月

地下鉄サリン事件が起こった直後に
合格の知らせが届きました



1995年4月

kinocoの誕生日の頃に大学入学

居候先のお姉さん宅から
大学へ通い始めました





それから

ほとんど興味のなかった
スペイン語を学びはじめ

中南米を専攻して
深く学ぶことになります


古代マヤの本拠地である
グアテマラやメキシコの歴史・文化を知り

マヤ先住民のことや
ツォルキン暦を知ることになり


数年後


グアテマラへ行くことになりました





授業と予習と部活以外の時間は
バイト漬けの日々

一日8時間~14時間も
働いていたバイト先では

わたしのその後に
大きな影響を与える2人の人物に
出会うことになります



ひとりは

世界の秘境を旅するのが趣味の
男性社員さん

後に


わたしのグアテマラ行きを
強力にサポートしてくれました




もうひとりは

1歳下のバイト仲間の男性

後に


パートナーとして長く関わり

わたしが
この世界に蔓延する

闇の構図に気づく


大きな役割を果たしてくれました






つづく