雨の日
「雨降が降っていますね」
玄関で空を見上げる瀬波さんの横顔に視線が向くと、動くことができなくて固まってしまう。
さらりとした髪や、すっと伸びた高い鼻、上向いた顎から続く喉、膨らんで存在を主張する喉仏。
一瞬ですべて見てとれるのに、いつもいつも見つめてしまう。
何度見ても見飽きることがないし、見とれてしまう。これが惚れた弱みだろう。
こちらを向いてにこりと笑顔をつくるので、わたしも笑いかえす。
「今年は雨が多いですね」
「雨ばかりでも、雨の日の楽しみもあります」
傘を開こうとするわたしの手を押し留めて、瀬波さんが首を振った。
「一緒に入っていきませんか」
持ち上げた手には、たっぷりとした布地を巻かれた傘がある。
「二人入っても大丈夫なくらいの余裕がありますよ」
言いながら傘を開いて見せると、確かに普通の傘より大分大きい。
瀬波さんを見ると、照れているようで、それでいて期待しているように目が輝いていた。
「じゃあお邪魔しますね」
「どうぞ」
嬉しそうに目尻や唇をほころばせる瀬波さんに一歩近づくと、瀬波さんの香りが強くなる。雨の匂いよりも、近くに優しい香りがする。
この距離は、いつもよりずっと近くて心臓が跳ね上がる。急に恥ずかしくてたまらなくなり、足元を見てしまう。
誘われたからと、こんなに簡単に傘に入ることははしたない事かもしれない。顔まで熱が上ってきて、熱くなる。
歩きだそうとした瀬波さんの足がとまり、肩に手をかけてさらに体を寄せられる。
はっとして顔を上げると、楽しそうに目を細めた瀬波さんが、唇を綺麗な三日月にして笑っていた。
「もっと寄らないと濡れてしまいますよ」
「……傘、大きいのに」
ふうっと耳の上で笑いが漏らされる。
「それは、あなたを側に置いておくための、ほんの僅かな理由でしかありません」
言葉が耳にかかって、くすぐったい。両手の塞がった瀬波さんは、顔を寄せて髪にキスを落とす。
「雨なら雨であるように、側にいるだけです」
大切にされていることが、恥ずかしいという気持ちを上回る。居心地の悪い恥ずかしさを、好きだという気持ちが埋めていく。
「ずっと側にいてくださいね」
玄関で空を見上げる瀬波さんの横顔に視線が向くと、動くことができなくて固まってしまう。
さらりとした髪や、すっと伸びた高い鼻、上向いた顎から続く喉、膨らんで存在を主張する喉仏。
一瞬ですべて見てとれるのに、いつもいつも見つめてしまう。
何度見ても見飽きることがないし、見とれてしまう。これが惚れた弱みだろう。
こちらを向いてにこりと笑顔をつくるので、わたしも笑いかえす。
「今年は雨が多いですね」
「雨ばかりでも、雨の日の楽しみもあります」
傘を開こうとするわたしの手を押し留めて、瀬波さんが首を振った。
「一緒に入っていきませんか」
持ち上げた手には、たっぷりとした布地を巻かれた傘がある。
「二人入っても大丈夫なくらいの余裕がありますよ」
言いながら傘を開いて見せると、確かに普通の傘より大分大きい。
瀬波さんを見ると、照れているようで、それでいて期待しているように目が輝いていた。
「じゃあお邪魔しますね」
「どうぞ」
嬉しそうに目尻や唇をほころばせる瀬波さんに一歩近づくと、瀬波さんの香りが強くなる。雨の匂いよりも、近くに優しい香りがする。
この距離は、いつもよりずっと近くて心臓が跳ね上がる。急に恥ずかしくてたまらなくなり、足元を見てしまう。
誘われたからと、こんなに簡単に傘に入ることははしたない事かもしれない。顔まで熱が上ってきて、熱くなる。
歩きだそうとした瀬波さんの足がとまり、肩に手をかけてさらに体を寄せられる。
はっとして顔を上げると、楽しそうに目を細めた瀬波さんが、唇を綺麗な三日月にして笑っていた。
「もっと寄らないと濡れてしまいますよ」
「……傘、大きいのに」
ふうっと耳の上で笑いが漏らされる。
「それは、あなたを側に置いておくための、ほんの僅かな理由でしかありません」
言葉が耳にかかって、くすぐったい。両手の塞がった瀬波さんは、顔を寄せて髪にキスを落とす。
「雨なら雨であるように、側にいるだけです」
大切にされていることが、恥ずかしいという気持ちを上回る。居心地の悪い恥ずかしさを、好きだという気持ちが埋めていく。
「ずっと側にいてくださいね」
君から 僕から
言葉は君から
生まれてくるよ
君の姿から
君のしぐさから
僕の瞳に焼き付いて
僕の心を揺らす
僕の唇から
こぼれて
あふれる
ただひとつの心で
ただひとつの言葉
でしかない
ひとつでしかないのに
さまざまな色を持つ
ただ
ただ
それを君に贈ろう
生まれてくるよ
君の姿から
君のしぐさから
僕の瞳に焼き付いて
僕の心を揺らす
僕の唇から
こぼれて
あふれる
ただひとつの心で
ただひとつの言葉
でしかない
ひとつでしかないのに
さまざまな色を持つ
ただ
ただ
それを君に贈ろう
姉の思い出
その人が家に来たのは、翌日に姉の四十九日を控えた土曜日だった。
「高宮と申します。佳奈子さんの大学の同級生なのですが、つい最近亡くなったと聞きまして、お線香をあげさせていただけますか」
そう言って高宮さんは、玄関先からこちらを見上げた。
黒目がちの大きな瞳は、困ったような表情を浮かべている。
姉は地元から離れた大学に進学したため、同級生といっても顔を見たこともない女性だった。
こちらとしては、姉を偲んで来ていただいた方を断る理由もない。
家に上がって頂いて仏壇へと案内した。仏壇前の座布団をすすめると、黒い瞳がじっと姉の遺影を見つめていた。
「いい顔で写っているでしょう。姉が元気な頃、友達と旅行に行った時の写真を引き伸ばしたものです。姉は発病して家に戻って来ていたのですが、遺影に使うならこれと決めていたようです」
些細なことでも涙腺がゆるむらしく、彼女は黒い瞳に涙を浮かべて頷いた。俯いて溢れる涙は、真っ白なハンカチに拭い取られる。
「彼女は本当に活発で、物おじしなくて、誰とも分け隔てなく付き合える人でした。先生や先輩からは可愛がられるし、後輩からは慕われて、いつも人の輪の中心にいるような人でした」
弟に対しては、ちっとも優しくなんかなかったし、パシリに使われていたけど、それでも明るくて、いざという時には機転がきいて頼りになる姉のことが自慢だった。
「わざわざ出向いて頂いて姉も喜んでいるはずです」
涙を拭いながら、こくこくと高宮さんが頷く。嗚咽をこらえる様子から、姉とは掛け替えのない学生生活を送ってきたのだと伺えた。
ひとしきり泣いて、うっすらと赤い目で仏壇に向き直ると線香を取り、手向けてくれた。
お茶をどうぞ、と促すとその前にトイレを借りたいというので、内心慌てながら案内する。
「実は家が古くて歪んでいるので、トイレのドアがうまく閉まらないのです。ちょっとコツがいるのですが見ていてくださいね」
友人の弟とはいえ、自分は初対面の男だ。開けはしないといった所で、きっとためらうはずなので、コツを教えてきっちりドアに鍵をかけてもらうつもりでいた。
明日の法事で親戚にわいわい言われたところで、身内の気安さからなんてことはないが、年頃の女性には恥じらいがなくてはいけない。
ドアを開けて個室に入り、えいっとノブを強く引く。
「コツは持ち上げ気味にドアを引くことです」
なんとか一度でお手本をしめせたことに安心する。ほっと息をついて外に出ようとするが、今度は押してもドアが開かない。
ガチャガチャとノブを回してみるものの、鍵の掛かった状態のままびくともしない。
「どうしました?大丈夫ですか」
ドアの外からは心配そうな声がする。見本を見せるなんて言いながら、みっともないったらない。うなだれると額から汗が流れる。狭い個室は蒸し暑くて、あっという間に汗をかいてしまう。
「すみません、なんだかドアが開かなくなってしまいました。庭の物置まで、マイナスドライバーを取りに行って貰えませんか」
「わかりました。すぐ行ってきますね」
ぱたぱたと軽い足音が遠ざかっていく。
しばらく諦め悪くドアノブをガチャガチャさせていたけれど、一向に開く気配がないのて、洋式便器に座って待つことにした。
「すみません、なかなか見つからなくて時間がかかってしまいました。ドライバーをどうしたらいいのでしょう」
小走りに近づいてきた高宮さんが、トントンとドアを叩いた。
ほっと息をついて立ち上がりドアに近づく。初めて会ったばかりの人に、助けてもらうしかない状況に苦笑いしか浮かばない。
「ドアノブの上に、横に切れ目の入った丸いプレートがありませんか」
「あります。けっこう傷がついていますね」
額を流れる汗を手でぬぐう。
「昔から建て付けが悪かったせいで、子供の頃からしょっちゅう閉じ込められていたんです。姉と自分のどちらかが閉じ込められたら、残された者は必ず助けなくてはいけなかったので、けっこうあれこれしたものです。
マイナスドライバーを溝に当てて右に回して下さい。それで鍵が開くはずです。
事故や病気で中で人が倒れても、ドアを外さなくていいように外からも開けられるようになっているのです」
説明が終わると同時に、カチリと音がして鍵が開く。久々の新鮮な空気を思いきり吸い込む。
ほっとした顔の高宮さんからドライバーを受け取る。
「高宮さん、本当に助かりました。お待たせしてしまってトイレ大丈夫ですか?いい大人が篭城した後で良かったら、お使い下さい。すぐにお茶を入れますね」
「そうでした。びっくりして忘れてましたが、思い出したのでお借りします」
そう言って場所を入れ替わる。ふわっと花の香りがして、高宮さんが自分を仰ぎ見る。
「もし、私が閉じ込められたら助けてくれますか?」
高宮さんの顔にはいたずらな笑みが浮いていて、期待しているかのように目が輝いていた。
「大丈夫です。そこに居ますから、すぐに駆け付けます。姉にしていたようにね」
手のなかにあるドライバーをぽんぽんと弾ませて答えた。
花の綻ぶような笑顔を浮かべて、高宮さんはドアの内へと消えた。すんなり閉まったドアの、カチリいう音を聞いて台所へと踵をかえす。
カラカラの体に、冷たい麦茶がきっと美味しいはずだ。
麦茶をすすめて高宮さんと雑談した後、彼女を玄関まで見送る。最後にどうしても知りたくて、ひとつ質問した。
「高宮さんは姉の恋人に会ったことがありますか」
少し考えて、彼女は「知りません」と答えた。
「姉は何も言わなかったけれど、好きな人がいたことは確かなのです。不倫だとか人には言えない関係で、最後まで隠し通したのかもしれません。……ただ最後は家族だけしか看取ることが出来ませんでした。それで本当に良かったのか、今も…ずっと心残りなのです」
涙のない澄んだ瞳を向けて高宮さんが答える。
「この結末にたどり着くまで、きっと佳奈子さんも相手の方も何度も話し合ったのではないでしょうか。最後はこの生まれ育った家の娘として、旅立ちたかったはずです。それが死んだ後も彼女を守ることだったのだと思います」
俯いてしまった自分の視線の先に、高宮さんの優美な靴のラインがある。微動だにしないその立ち居振る舞いが、とても強い意志を感じさせる。
この人も姉に似て、凛々しくてとても強いのだ。
「今日はありがとうございました」
深々と腰を折り頭を下げる。
自分は、まだ納得出来ていなかった。あれだけ利発な姉が好きになるだけの人物が、姉の死に対して何のリアクションもないことに苛立ちを覚えていたのだ。姉の棺に縋って泣き叫ぶような醜態が見たかった訳じゃない。
姉は余命半年になって家に帰って来たのだ。予想のつくその期日に何もなかったことが、最後の最後まで姉を軽く扱われたのかと腹がたつ。
心を落ち着けたくて、仏壇の姉の遺影を眺める。
家に帰ってきた姉はしおらしくなっていて、「迷惑かけてごめんね」とよく言った。
恋人がいるのか問い質した時も、「好きな人はいる。その人に迷惑をかけたくなくて家に帰ってきたのよ」そう言っていた。
好きなら離れたくなんかないはずた。それを最後を看取ることをしないで放り出した相手は冷酷な奴に違いない。
じっと仏壇を眺めていたら、違和感を感じた。わずかながら骨壷の位置がズレて壷の上にかける覆いが少し浮き上がっていたのだ。
直そうと手に取り、そのあまりの軽さに信じられず、壷の蓋を開けた。
人が座禅を組んでいる形をした骨が、一番上にあるのは変わらない。ただ、明らかに骨の量が少なくなっていた。姉はまだ若かったこともあって、骨は骨壷の八割ほどまであったのだ。
今はその半分しかない。
いつ、誰が持ち去ったのだろう。姉が亡くなってからも焼香に来てくれる友達はいた。しかし、その間仏間に一人にしたことはなかった。
ふいに姉の言葉を思い出す。
「もし、何であれあたしの物を欲しがる人がいたら、みんなあげて頂戴」
姉の言葉に騙されていた。物なんかじゃなく、その人は姉そのものを奪っていったのだ。
姉が言えなかった恋人の存在が鮮やかに浮かび上がる。
高宮さんだ。
あの、姉によく似た凛とした佇まい。知的な黒い瞳を思い出す。
あの人は、計画的に姉を取り戻しに来たのだ。葬儀に出席しなかったのも、この日のため。全て姉の遺骨を盗むためだった。
この家の建て付けが悪いのも、姉から聞いて知っていたのだろう。トイレを借りるふりをして、自分を閉じ込め、その隙に遺骨を盗んだに違いなかった。
顔に手をやると、知らずに流れていた涙が頬を濡らしていた。
姉が粗末に扱われているようで、ずっと憎んでいたし、悔しく思っていた。
姉は誰よりも幸せになって欲しかったから。誰かと幸せな関係を築いていたと信じたかったから。
解れていく糸に、それぞれの思いが乗っていく。
高宮さんが、看取ることを諦めても守りたかった姉の高潔さを自分が汚すことは出来ない。
この家の娘として送り出すということは、日本では彼女が姉のパートナーだと認められていないからだ。
日本では同性の婚姻は認められていない。だから高宮さんが姉を看取ったなら、姉は死後も親戚から糾弾されただろう。
法的に何の権利も与えられていない彼女は、姉の遺骨を所有することも出来ないのだ。
だからといって褒められたことではないが、胸の曇りが晴れていく。
姉は最高のパートナーを得て、幸せに暮らしていたのだ。そしてお互いに打ち合わせていたであろう今日を迎えた。
それは四十九日をもって納骨される姉を、少しでも長く生家に居させるという配慮かもしれなかったし、墓地から遺骨を盗む罪悪感かもしれなかった。
「姉さん、きっと高宮さんはロマンチストなんですね」
そっと遺影に語りかける。
無くなっていた骨の量は、ただ分骨したいというより多かった。きっと300グラムを越える。それだけあれば、ダイヤモンドが作れるのだ。
そこまで高宮さんが遺骨を欲しがったのは、遺骨からダイヤモンドを作るためだろう。
姉が居なくなっても、いつもそばに姉の存在を感じていられるように。
凛とした高宮さんの胸に、輝きを放つ姉がいることを思い描いて、また溢れた涙をぬぐった。
「高宮と申します。佳奈子さんの大学の同級生なのですが、つい最近亡くなったと聞きまして、お線香をあげさせていただけますか」
そう言って高宮さんは、玄関先からこちらを見上げた。
黒目がちの大きな瞳は、困ったような表情を浮かべている。
姉は地元から離れた大学に進学したため、同級生といっても顔を見たこともない女性だった。
こちらとしては、姉を偲んで来ていただいた方を断る理由もない。
家に上がって頂いて仏壇へと案内した。仏壇前の座布団をすすめると、黒い瞳がじっと姉の遺影を見つめていた。
「いい顔で写っているでしょう。姉が元気な頃、友達と旅行に行った時の写真を引き伸ばしたものです。姉は発病して家に戻って来ていたのですが、遺影に使うならこれと決めていたようです」
些細なことでも涙腺がゆるむらしく、彼女は黒い瞳に涙を浮かべて頷いた。俯いて溢れる涙は、真っ白なハンカチに拭い取られる。
「彼女は本当に活発で、物おじしなくて、誰とも分け隔てなく付き合える人でした。先生や先輩からは可愛がられるし、後輩からは慕われて、いつも人の輪の中心にいるような人でした」
弟に対しては、ちっとも優しくなんかなかったし、パシリに使われていたけど、それでも明るくて、いざという時には機転がきいて頼りになる姉のことが自慢だった。
「わざわざ出向いて頂いて姉も喜んでいるはずです」
涙を拭いながら、こくこくと高宮さんが頷く。嗚咽をこらえる様子から、姉とは掛け替えのない学生生活を送ってきたのだと伺えた。
ひとしきり泣いて、うっすらと赤い目で仏壇に向き直ると線香を取り、手向けてくれた。
お茶をどうぞ、と促すとその前にトイレを借りたいというので、内心慌てながら案内する。
「実は家が古くて歪んでいるので、トイレのドアがうまく閉まらないのです。ちょっとコツがいるのですが見ていてくださいね」
友人の弟とはいえ、自分は初対面の男だ。開けはしないといった所で、きっとためらうはずなので、コツを教えてきっちりドアに鍵をかけてもらうつもりでいた。
明日の法事で親戚にわいわい言われたところで、身内の気安さからなんてことはないが、年頃の女性には恥じらいがなくてはいけない。
ドアを開けて個室に入り、えいっとノブを強く引く。
「コツは持ち上げ気味にドアを引くことです」
なんとか一度でお手本をしめせたことに安心する。ほっと息をついて外に出ようとするが、今度は押してもドアが開かない。
ガチャガチャとノブを回してみるものの、鍵の掛かった状態のままびくともしない。
「どうしました?大丈夫ですか」
ドアの外からは心配そうな声がする。見本を見せるなんて言いながら、みっともないったらない。うなだれると額から汗が流れる。狭い個室は蒸し暑くて、あっという間に汗をかいてしまう。
「すみません、なんだかドアが開かなくなってしまいました。庭の物置まで、マイナスドライバーを取りに行って貰えませんか」
「わかりました。すぐ行ってきますね」
ぱたぱたと軽い足音が遠ざかっていく。
しばらく諦め悪くドアノブをガチャガチャさせていたけれど、一向に開く気配がないのて、洋式便器に座って待つことにした。
「すみません、なかなか見つからなくて時間がかかってしまいました。ドライバーをどうしたらいいのでしょう」
小走りに近づいてきた高宮さんが、トントンとドアを叩いた。
ほっと息をついて立ち上がりドアに近づく。初めて会ったばかりの人に、助けてもらうしかない状況に苦笑いしか浮かばない。
「ドアノブの上に、横に切れ目の入った丸いプレートがありませんか」
「あります。けっこう傷がついていますね」
額を流れる汗を手でぬぐう。
「昔から建て付けが悪かったせいで、子供の頃からしょっちゅう閉じ込められていたんです。姉と自分のどちらかが閉じ込められたら、残された者は必ず助けなくてはいけなかったので、けっこうあれこれしたものです。
マイナスドライバーを溝に当てて右に回して下さい。それで鍵が開くはずです。
事故や病気で中で人が倒れても、ドアを外さなくていいように外からも開けられるようになっているのです」
説明が終わると同時に、カチリと音がして鍵が開く。久々の新鮮な空気を思いきり吸い込む。
ほっとした顔の高宮さんからドライバーを受け取る。
「高宮さん、本当に助かりました。お待たせしてしまってトイレ大丈夫ですか?いい大人が篭城した後で良かったら、お使い下さい。すぐにお茶を入れますね」
「そうでした。びっくりして忘れてましたが、思い出したのでお借りします」
そう言って場所を入れ替わる。ふわっと花の香りがして、高宮さんが自分を仰ぎ見る。
「もし、私が閉じ込められたら助けてくれますか?」
高宮さんの顔にはいたずらな笑みが浮いていて、期待しているかのように目が輝いていた。
「大丈夫です。そこに居ますから、すぐに駆け付けます。姉にしていたようにね」
手のなかにあるドライバーをぽんぽんと弾ませて答えた。
花の綻ぶような笑顔を浮かべて、高宮さんはドアの内へと消えた。すんなり閉まったドアの、カチリいう音を聞いて台所へと踵をかえす。
カラカラの体に、冷たい麦茶がきっと美味しいはずだ。
麦茶をすすめて高宮さんと雑談した後、彼女を玄関まで見送る。最後にどうしても知りたくて、ひとつ質問した。
「高宮さんは姉の恋人に会ったことがありますか」
少し考えて、彼女は「知りません」と答えた。
「姉は何も言わなかったけれど、好きな人がいたことは確かなのです。不倫だとか人には言えない関係で、最後まで隠し通したのかもしれません。……ただ最後は家族だけしか看取ることが出来ませんでした。それで本当に良かったのか、今も…ずっと心残りなのです」
涙のない澄んだ瞳を向けて高宮さんが答える。
「この結末にたどり着くまで、きっと佳奈子さんも相手の方も何度も話し合ったのではないでしょうか。最後はこの生まれ育った家の娘として、旅立ちたかったはずです。それが死んだ後も彼女を守ることだったのだと思います」
俯いてしまった自分の視線の先に、高宮さんの優美な靴のラインがある。微動だにしないその立ち居振る舞いが、とても強い意志を感じさせる。
この人も姉に似て、凛々しくてとても強いのだ。
「今日はありがとうございました」
深々と腰を折り頭を下げる。
自分は、まだ納得出来ていなかった。あれだけ利発な姉が好きになるだけの人物が、姉の死に対して何のリアクションもないことに苛立ちを覚えていたのだ。姉の棺に縋って泣き叫ぶような醜態が見たかった訳じゃない。
姉は余命半年になって家に帰って来たのだ。予想のつくその期日に何もなかったことが、最後の最後まで姉を軽く扱われたのかと腹がたつ。
心を落ち着けたくて、仏壇の姉の遺影を眺める。
家に帰ってきた姉はしおらしくなっていて、「迷惑かけてごめんね」とよく言った。
恋人がいるのか問い質した時も、「好きな人はいる。その人に迷惑をかけたくなくて家に帰ってきたのよ」そう言っていた。
好きなら離れたくなんかないはずた。それを最後を看取ることをしないで放り出した相手は冷酷な奴に違いない。
じっと仏壇を眺めていたら、違和感を感じた。わずかながら骨壷の位置がズレて壷の上にかける覆いが少し浮き上がっていたのだ。
直そうと手に取り、そのあまりの軽さに信じられず、壷の蓋を開けた。
人が座禅を組んでいる形をした骨が、一番上にあるのは変わらない。ただ、明らかに骨の量が少なくなっていた。姉はまだ若かったこともあって、骨は骨壷の八割ほどまであったのだ。
今はその半分しかない。
いつ、誰が持ち去ったのだろう。姉が亡くなってからも焼香に来てくれる友達はいた。しかし、その間仏間に一人にしたことはなかった。
ふいに姉の言葉を思い出す。
「もし、何であれあたしの物を欲しがる人がいたら、みんなあげて頂戴」
姉の言葉に騙されていた。物なんかじゃなく、その人は姉そのものを奪っていったのだ。
姉が言えなかった恋人の存在が鮮やかに浮かび上がる。
高宮さんだ。
あの、姉によく似た凛とした佇まい。知的な黒い瞳を思い出す。
あの人は、計画的に姉を取り戻しに来たのだ。葬儀に出席しなかったのも、この日のため。全て姉の遺骨を盗むためだった。
この家の建て付けが悪いのも、姉から聞いて知っていたのだろう。トイレを借りるふりをして、自分を閉じ込め、その隙に遺骨を盗んだに違いなかった。
顔に手をやると、知らずに流れていた涙が頬を濡らしていた。
姉が粗末に扱われているようで、ずっと憎んでいたし、悔しく思っていた。
姉は誰よりも幸せになって欲しかったから。誰かと幸せな関係を築いていたと信じたかったから。
解れていく糸に、それぞれの思いが乗っていく。
高宮さんが、看取ることを諦めても守りたかった姉の高潔さを自分が汚すことは出来ない。
この家の娘として送り出すということは、日本では彼女が姉のパートナーだと認められていないからだ。
日本では同性の婚姻は認められていない。だから高宮さんが姉を看取ったなら、姉は死後も親戚から糾弾されただろう。
法的に何の権利も与えられていない彼女は、姉の遺骨を所有することも出来ないのだ。
だからといって褒められたことではないが、胸の曇りが晴れていく。
姉は最高のパートナーを得て、幸せに暮らしていたのだ。そしてお互いに打ち合わせていたであろう今日を迎えた。
それは四十九日をもって納骨される姉を、少しでも長く生家に居させるという配慮かもしれなかったし、墓地から遺骨を盗む罪悪感かもしれなかった。
「姉さん、きっと高宮さんはロマンチストなんですね」
そっと遺影に語りかける。
無くなっていた骨の量は、ただ分骨したいというより多かった。きっと300グラムを越える。それだけあれば、ダイヤモンドが作れるのだ。
そこまで高宮さんが遺骨を欲しがったのは、遺骨からダイヤモンドを作るためだろう。
姉が居なくなっても、いつもそばに姉の存在を感じていられるように。
凛とした高宮さんの胸に、輝きを放つ姉がいることを思い描いて、また溢れた涙をぬぐった。