ふんわりシフォン -13ページ目

雨を待ち風を待っている

気象庁が発表した梅雨明け宣言は、『梅雨明けしたもよう』というハッキリしないもので、語尾に疑問符が二つ、三つ付きそうなもだった。

もし梅雨が明けても雨が降ったりしたら、と心配して明らかに追求逃れの逃げ道を残している。

とはいえ梅雨が明けたなら、湿度は残して気温も上がる。どちらかだけなら、まだ気温が高いほうがましだ。肺を圧迫する湿度の熱気に、息をするのさえ苦しさを覚える。

梅雨明けしてからの10日が体が夏に慣れる正念場だ。


「あっついなぁ」

ばさばさと紙の束で風を送りながら、辰野さんが唸る。


「とうとう梅雨が明けましたからね。気温もハンパなく上がりますよ」

俺も自販機で買った飲み物を煽ってため息をつく。

「隆哉の階、まだマシだろ。俺んとこ35度越えたから、レッドゾーンに入ったぞ」

レッドゾーンというのは、各階に設置されている温度と湿度が表示される温度計で、互いの針が交差する地点が体調管理の目安になる。ちなみに気温33度、湿度60パーセントならイエローゾーンで厳重警戒にあたる。

だから、この場合のレッドゾーンは厳重警戒の上をいく注意が必要だということになる。



「35度…それって仕事していい限界とかないんですかね」

「ま、ないんじゃね?」

会社のおしぼりで首筋を拭いながら、辰野さんがぼやく。

「毎年あちーとは思うけど、今が一番こたえるからな。隆哉も水分取っとけよ」



その時、休憩室を覗きこんだ事務員に口パクで書類を指さしされ辰野さんは席を立った。



「辰野さん忙しー」

グビッとペットボトルを煽ると、紙コップの氷を噛み砕きながら桧山さんが笑った。

「辰野はアレで真面目だからな。ああいう奴が上に立ってもらいたいよな」

「いい人だし」

「嫁の尻に敷かれててもか」

そこで休憩室に笑いが起きる。仕事の出来る辰野さん唯一の弱みだからだ。

辰野さんの愛妻家ぶりは有名で、気の強い奥さんとバランスを取って仲がいい。
早くに結婚したのも身寄りのない奥さんを思ってのことで、家族を作ってあげたかったと言っていた。



「コールセンターよかずっといい」


「まあな。ありゃパートさんに恵まれただけだよ」

コールセンターのあだ名は、片時も社内連絡用のPHSを離さずに電話をしていることからついたものだ。

「結局、数字を出した者勝ちってことだ。それが優秀なパートさんのおかげだとしてもな」



仕事では人に恵まれるということがある。本当に苦しい時、助けてくれる人がいるといないでは、まったく仕事に対する姿勢も違ってくる。

真摯に誠実に仕事をしても、壁というものはあって、打ち壊すのは自分でも、それを壊すきっかけをもらうのは、仲間だったり同僚だったり、上司だったりする。

自分一人で、なんでも出来るなんて思いあがるな。



人と関わるから、仕事でのミスは辛い。一生懸命の、精一杯で全部どうにかなるなら、仲間なんていらない。

ただそんなのは無理なだけだ。



ピピッと携帯のタイマーが鳴る。

「さて、行きますか」

膝を打ってそれぞれ立ち上がる。



「なあ、雨降るといいな」

雨上がりは、熱っせられた建物も涼しくなるだろう。

「ああ。風が吹いて虹がかかるといいな」



開け放した非常口から見える大きな虹は

すごく大きくて、とても綺麗だ。

見えるもの 見えたものそして見えないもの

たとえば

日々のなかで

思うことも



胸の水底に

しまうことも



ふと見上げる空に

咲いている花に

心を映すように



世界はそこにあって

内にある世界と重なる

色硝子と擦り硝子を重ねるように



生まれ落ち

溢れ

染み込む



変わらないようで

変わり続ける



僕と君も

二文字

「たった二文字で言葉になるんだよ」

くるくるとマグカップを掻き回していると、瀬波さんがそう言った。

「いぬ、とか ねこ とかですか」


「う…ん…それは名称だから」


瀬波さんが、長めの前髪の隙間から優しい目をする。
少し内にこもるきらいのある瀬波さんの前髪は、見たくない物からガードするためにか長い。髪を切りに行っても長めに残されるそれは、時折二人の間を隔てているようで気になる。



「名称でないなら、動詞ですか?立つとか来るとか行くとか」

「いや…待って。そう来るとは思ってなくて」



瀬波さんは視線を逸らして、手で口を覆う。動揺とわずかな頬の赤みが、自分が恥ずかしいことを口走ったと気づかせる。



「例えば、お互いを想う気持ちとか…」

「好き」



間にある机に身を乗り出して言っていた。瀬波さんの顔が見たくて、前髪をすくって目を見つめる。



「あたり



………もう一回言って」

「瀬波さんが、好き」

「俺も」

「それってズルい」

「あのね、実はおでこ出すの嫌い。広くておかしい」



わたしの手の上に瀬波さんの手が重なる。熱を持った瀬波さんの目が潤んでいるように感じる。



「そんなことないです。賢こそうですよ」

「気にならない?天辺からいくのか、おでこから来るのか」

「まだ大丈夫」



笑ってさらりとした髪に手を滑らせる。

「わたしが好きになったのは、中身だから大丈夫です」



剥き出しにしたままの、おでこにキスをする。



「……して」

もう一度、おでこにキスをする。掠れた声で、したたたるような色気を含んだ声だった。

二文字で言い表す言葉に、ここまでの表現が出来るのだと驚いてしまう。

そんな二文字を理解できるのは、わたしが少しでも瀬波さんに近づいているのだと思えて嬉しい。



他にもあるかもしれない言葉を、また二人で探していけるなら



それはとても幸せなことだ。