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急ぎたくないよー

最近、特に外出する前の準備時に長男(4歳)に「速くしろ!」と怒ることが多い。そんなとき、彼は「速くできないよー」とか「急ぎたくないよー」と反論してくる。その場はいろいろと予定もあることから、無理やり服を着させたり、靴をはかせたりするが、後になって考えてみると、教育上よくなかったのかもしれないと少し反省する。

ひょっとするとうちの子は、常に時間で管理され、速いこと、強いこと、お金を稼げること、がよいとされているこの現代資本主義社会を批判しているのだろうか、などと深読みしたりすることもたまにある。とはいえ、彼がこれから生きていかなければならない社会はその資本主義社会だし、これからさらに世界的な競争が激しくなるから、ある程度は速く、強く、稼げる人間になってもらう必要がある。もちろん、そのルールから外れても生きていけるだけの強さが持てればなおよい。さらに、ルール自体を変える革命家として、二人いる子の一人くらいは育ててみてもいい気もするが、個人の素養もあるのでそのあたりはよく見極めたい、などと妄想は膨らんでいく。まあ、いずれにしても、「急ぎたくないよー」とは会社で一度は上司に向かって言ってみたいせりふではある。

さて、そんな急ぎたくないときに最近よく聴いているのは、ジョニ・ミッチェルの「Ladies Of The Canyon」。ジャネット・ジャクソンが「Got 'Til It's Gone」でサンプリングした”Don’t it always seem to go that you don’t know what you’ve got till its gone”というフレーズが印象に残る「Big Yellow Taxi」が含まれていることでも有名なアルバム。ジョニ・ミッチェルのアルバムにしては、明るくのどかな感じのする曲が多いと個人的には思っている。

 子どもが大きくなってからもっと遊んであげればよかったと後悔しないように、できるだけゆったりとした時間を一緒に過ごすことができればと思っている。


Joni Mitchell
Ladies of the Canyon
Janet Jackson
The Velvet Rope

2度目の一人旅

初めての一人旅については11月28日に書いたが今日は2度目の一人旅の話。

 2度目の一人旅は小学校4年生のときに敦賀に行った。初めての一人旅は車中泊だったので、今度は母に民宿をとってもらい本格的な旅にしてもらった。敦賀でどこに行ったかはもう忘れてしまったが、民宿の人に迎えに来てもらった車の中で見たくすんだ灰色の空と初めて一人で外で食べた夕食がひどく味気なかったことだけは覚えている。

 電車に乗るのが好きな子どもだったので、旅の目的は主に車窓から景色を眺めることだった。初めて乗る東海道線や湖西線に随分興奮した。私鉄沿線で育ったので、「快速」電車に乗っていることもすごくうれしかった(僕の住んでいる私鉄は「急行」という名称だった)。帰りの東海道線では、同じく一人旅の大学生のお兄さんと同席になり、随分親切にしてもらった。いろいろとお話をしてくれて、持っていたギターも触らせてくれた。当時は、大学生がすごく大人びて立派に見えた。実際自分が大学生になったらそうでもなかったが。

 絲山秋子さんの「海の仙人」はこの敦賀を舞台にした小説だ。主人公がこの敦賀という街にほれ込んで、かなり浮世離れした生活をしているところに、「ファンタジー」という神様もどきのような存在が現れる話。そこに二人の女性がからんで、淡々とした恋愛模様が展開される。そのクールで乾いた感じがとても気に入っている。この小説の中でも敦賀の空について何度か触れられており、僕の印象と同じくどこか曇った感じで描かれている。しかし、その曇ったイメージは必ずしも悲惨ではなく、かすかな希望が感じられる。

 実際の敦賀の空はどんな感じなのだろうか?小学4年生以来行っていないので、新快速で直通になったこともありぜひ行ってみたいと思う。原発がらみですっかり暗いイメージが僕の中で出来上がっているが、以外にすっきりとした青空が見られるかもしれない。


絲山 秋子
海の仙人

駅伝の思い出

 お正月三が日は、サッカー天皇杯決勝、箱根駅伝をテレビで観ているうちに終わった。

特に駅伝はそれまで全然興味がなかったのに(学生時代母が好きでよく観ていたが、時間の無駄とさえ思っていた)、自分で走るようになってからはつい観てしまう。特に、5区の山登りと6区の山下りはどれほどハードなものか想像もつかないので、いつも感心してしまう。期待されていてきちんと結果を出した順天堂大学の今井選手は本当に立派だ。

話は変わって僕の駅伝の思い出だが、全くよい思い出がない。ある日クラブ対抗駅伝大会なるものが企画され、当時僕が所属していた野球部は人数が多かったので2チームが編成された。Aチームはレギュラー中心、Bチームは補欠中心。野球は下手だったが、当時から長距離だけはまじめに練習していて、部内で持ちタイムがよかった僕はBチームのアンカーになった。もっとも、当時のレギュラーは格好をつけて、タイム測定時に手を抜く人が多かったのでどこまで正確な順位かは不明。

顧問の先生は、Aチームで優勝を狙い、Bチームは補欠にも見せ場を与える寛大な教師を演じたかったのかもしれないが、予想に反して、Aチームは失速し、Bチームは順調にトップで襷をつないでいた。いよいよアンカーの僕の番というときに、先生は「A,Bチームのアンカー交代」と信じられないことを言った。補欠にも見せ場を与えるという建前は一気に崩壊し僕に対する信頼感の欠如が見事に露呈。この対応はさすがにつらかった。 

 今になって思えば歩いてやればよかったと思うが、まじめだった僕は、それなりに襷の重みを感じて、最下位から1つ順位を上げるなど一応はまじめに走った。しかし、さすがに怒りが収まらなかったので、PTAから依頼された卒業文章にこの事実を書き「最低の中学校」と書いてやった。その後、中学校の先生から僕に連絡が来ることはない。


観る・歩く・応援する箱根駅伝まるごとガイド―第83回東京箱根間往復大学駅伝競走