警醒催眠
人が”野生”と呼ぶ部分、
その根本的な喜びは競争に勝利するという充実。
それはさておき。
成熟の裏返しとしての未熟ではなく、
成熟の裏地に未熟を着ている人は、
きっと誰よりもうんと失敗を重ねて、
そして充足していくという真実。
さて、みなさんいかがお過ごしゅう。
僕の回りは最悪でございます。
連日この寒さですのでそういう事もあろうかと思います。
あって欲しくはないですが、そういう事もあろう、です。
最悪というのは余りなので、敢えて思うところあった、とだけ留めます。
えっと、今だいぶ陰に振れていますね。
色々とご迷惑をおかけしているかと、ですが、
各々方へ改めてご挨拶しようかと思います。
実とはなんだーーー?!
情緒の破裂
思いっきり風邪をひいた。
それと、ささくれが足に深く刺さって大変だった。
うっかり同化するところだったが、針で皮をめくって真皮の辺りを穿り返し毛抜きで抜く。
足裏だったので歩くと痛い。
胃腸が重い。相変わらず風邪だし。
これはもう、たまらーん。
それはさておき、年が明けて一週間経つけど活動らしい活動ができていないのが、
たまらーんなのです。
タマラーン、モンスター。
幻覚の見かた。
簡単に幻覚を見る方法。
人が誰もいない広い空間(50m×50 mくらいは欲しい)、
オススメとしては何か大きな施設の駐車場、夜は何もないので。
そこで真ん中へ向かって目をつむって歩き出す。
何もないからだいぶ歩いても大丈夫、と確認してから目をつむり歩く。
すると10秒も歩けば、目の前に何かものがあったり人が立っていたり、
横にロープのようなものが張ってあったり、そのような幻覚が見えて思わず立ち止まってしまう。
これをやってわかるのは、
本当はそんなものはないにも関わらず、思わず「何かある!」と幻覚を見る感覚。
人間は案外簡単に間違ったものを見る。
恐怖感や不安感はそれにつながりやすい。
人間は幻覚に興味をひかれるのもわかる。
自分の感覚を世界と摺り合わせると言ったら大げさだけど、独りよがれる感じだ。
恐いもの見たさもあるか。
それにしても大晦日に書くことだろうか。
本年はどうもお世話になりました、と結んでおこう。
物質の捉え方。
疲れた・・・。
そんでも書いとかないと忘れちまうので書こう。
物質。
他人の影を踏む事はできるか?
人のカラダは物質。
物質世界において太陽と同列の存在。
太陽の光はすり抜けない((厳密には知らんが)影ができる)。
ゆえに他人の影は踏む事はできない。
それはおろか人は自分の足の裏の影以外の影を踏む事はない。
最近影つけについて久々に考えはじめてみたので、その時にちょっと気付いた。
そういえばそう、という感じ。
影の立体的な写り込みを理解するのにワンステップなのかも。
他人の影は自分の足に写り込んでしまう。
それともうひとつ、資本主義の終焉。
それは地上の物質の枯渇。
地球環境が崩壊して、他の天体に移り住まなくてはならなくなったら、
人は完全に資本主義から卒業できると思う。
有史以来、史そのものが何かの主義の影。
農耕が始まって、神の存在に気づき(神を想いつき)、自然を抽出して宗教主義になって、
産業革命が起こって、資本主義。
人が生きるのには本来の意思と関係のないシステムが暴走して、
それが泡々と虚しい色取りを得て、文化が進むのだと思っていた。
物化と文化は実は切り離せる。
それは資本主義が教えてくれた。
まとまらないがなんとなくわかる、かな。
論理破綻
どれほど高級な論理でも人間が使えば必ず破綻する。
正解も不正解もない世界で論理を持ち出したのは他ならない人間だが、
自分自身が論理に満たされている存在ではないためにそうなる。
論理的というのは大脳新皮質による自己肯定的という。
子供のつく嘘と次元は一緒なのだ。
どこまで言っても自らの動機、利己がある人間には扱えないもの、とも言える。
でもそれも人間の脳が都合あわせで生み出したフィルタリングの一種という。
ネガティブ人間のもつ被害妄想と次元は一緒なのだ。
そこで、無知の知。
久しぶりに自分の絵について考えてみた。
思えば無知の無知の知れなさたるや、である。
昔の絵を上げてマゾヒスティックにロジスティックしてみるか。意味不明ロジック。
いや音で文章を書くのはいかんなぁてぃっく。
魂の寄る辺
最近は考えがまとまらなくて下書きの段階で止まってしまっているのだけど、
今回は本当に書いておかなくてはいけない。
ゲド戦記がアニメ化してしまう。
この児童文学は、井荻駅前のアパートから始まった自分の小さな生の中でとても大きな意味を植え付けた。
人にはその生き方の規範となる拠り所というものがあって、それは故郷のトウモロコシ畑だったり、にぎやかな商店街だったり、寂れた漁師町の港だったりする。
自分の場合、余所者の集まった街の中で拠る世界は言霊の世界で、この本は故郷のひとつなのだ。
思い出という生半可なものではなく、親から与えられ、始めて体験した架空の世界は、
ただのファンタジーではなくて、それは触れてはいけない、どこかの世界の不思議で、
それは単に物語ではなく、そのままボクの中に流れて触れてはいけないよと存在するものなのである。
なんだかそれは、故郷の広大な平原が、何か大きな企業に買収されて、
そもそも自分ちの土地なんかじゃないけれど、毎日そことつながって生活していて、
そんな所が自然公園というようなテーマのアミューズメントになってしまうような、そんな現実。
3巻読む。物語を体験する。
自分もほんの少しはアニメーションの事がわかっているつもりだけど、
3巻読む。その世界を自分の中に想像する。
あぁこれはアニメーションにはできないものを沢山含んでいる世界だなぁと、
普通は感じると思います。
よっぽどの覚悟とか、優れたアニメート技術とかそんなものを持っていても不可能なんじゃないかと思います。
3部作だとしても、全部で24時間だとしても、動画12万枚だとしても、制作費がいくらでも。
そういう世界がよりにもよってアニメーションの世界に焼き起こされるという現実にボクは耐える事ができるのか、
本当に揺らいでしまっています。
宗教者がするように、故郷を守るため、
時計仕掛けのオレンジを携えて、東小金井に向かおうか、
とかそんな感情です。
ついつい、なんでもどうにかできるものだと思っている不躾な連中を思ってしまう。
今世界はこれだけのファンタジー文学ブームなので原作者さんも何か思われてしまったのだろうかと穿ってしまう。
徳間と岩波のなんだか微妙な連携を思ってしまう。
そんなことはどうでもいいが思ってしまう。
なぜなら、ボクにとっての世界の魔法のひとつが具現化されて、無効になってしまうのだから。
見たらもう本当に飛ぶ力の何十%かを失うだろうと思う。
だから絶対観ないと決めました。くたばれ無法者!!
ツルツル
NTTフレッツ光の広告、新聞広告に混じっていたので、
田中達之さんのスマップが全く似てないのはともかくかっこいいから取っておいた。
新聞と言えば、読売新聞の兜金雅之さんという似顔絵描きの人がえらく気になっています。
ググったらお歳がわかって、納得。
そういえば文字媒体は最近とみに絵というものに近寄っている気がします。デジタル技術のせいなのか。
むかしからあるといえばあるけど、絵のない文字媒体って減ったなーとか。
絵らしい部分って基本”良さ”ってことだねーとか
絵くさい絵、前髪の「目透けます」のあれ。(「透けません」とは言うけど「透けます」とは言わないね…15年したら逆になります多分)
もしハイライトの使い方がより現実感や臨場感のために使われだすと、
というかいままでもそのために使われてきたので一々注釈して、描き手の捉え方がより現代的(帰納?)になったとして、
そういえば帰納ってことばはワシの出生に関する元ネタだったりして…ってわかったら哲学科か文科省の人(なんじゃそら)。あ、日本史専攻した人もわかる。
ってそんなんどうでもよくて、わかるっていうけどワシの事知らなかったらわかんないけど、大事な前提でした、演繹不可。
ってウルセー!さて。
ゴホン、「絵の良さ(と優しい人達が言うちょっと懐かしい描き方)」を持ったキャラは、
今の髪の毛のハイライト(謎のキューティクル、そもそも不自然だと思って…いや言うまい。わかってやってる人とそうじゃない人がいるわけだしなあ…)とか全部なくして行くと思います。
ん?ハイライト無しになると思います。(すっきり)
今よくやってる、影をあまり入れないっていうベクトル -ってあるんですよ、そういうシンプルにしていこうという流れというか再構築、っていうか温故知新?ってそれ意味違う- の中で、
シンプルとは言うけど、影を少なくしていこうと捉えている人と、
ハイライトをなるべく使わないようにしようと捉えてる人がいると思うんです。
そっちのハイライトなしで「絵ってえ(ぇ)なぁ~」っていう絵を作っていくと、流れができるかなとそのように思います。
つまりは子供向け系のアニメはハイライトがなくなるんじゃないかーって思うんです。(すっきり)
