仕事帰りで寝不足だったから、最初所々眠くなったけど、途中からグッと引き込まれた。

ドタバタものだから、展開が早くて忙しい感じだったけど、子ども向けだと思ってたら人間ドラマがしっかりあった。
これは“元子ども”である大人に向けた話でもある、やるなぁ……と感心。

号泣までいかないけど、涙ぐむ場面もあって、しっかり作られていた。
見て損はないけど、アニメだから基本的にファンタジーだし、ものすごくオススメ!って訳じゃないものの、絵や歌がいいから楽しめる人は多いと思う。

いろんなお菓子のキャラクターがコラボしてたので、自然と頬が緩んだ。

私は画面いっぱいに『ギンビス』という会社名を見て、お菓子会社がエンタメ業界に参入したのかと思っていた。
でも、お菓子もエンタメもどちらも人を笑顔にさせるためだから目的は同じ。


私個人の話になるけど、(いったん関係ない話を挟みます)この日はずっと悩んでいた退職の決断をし、とうとう上司に伝えることができた。
14年間、働いていた会社は介護業界で、認知症のお年寄りから罵詈雑言を浴びることも、理不尽に怒られることさえ業務内という認識でいた。

病気だから仕方ない、というのは正論だ。
でも、ある日ふと、これをこのまま許しているのは自分自身への心理的虐待ではないか?と。

とはいっても転職には自信がなく、マッサージの技術を活かしてリラクゼーションを提供する仕事に戻ればいいと、頭で思いつつも、もう人と関わらなくていい仕事に就きたいと思っていた。
それほど心が疲れていたから、『たべっ子どうぶつ』に癒されよう、と。

でも、退職を告げて一日経つと、なんだか不思議と前向きな気持ちになれた。
それは、“退職後の自分”と繋がれたからだろう。
今までは、仕事を続けたまま“もしも退職したら……”という妄想上の架空の自分を想像していたので、ネガティブな発想ばかりだった。

しかし、“退職後の自分”がリアルに存在することがわかってからの人生設計の中には、理不尽に怒る人はいない。
自分を大切にすることができる未来なら、人と関わることができそうだと思った。

『たべっ子どうぶつ』の映画の内容は、確かにおもしろかった点がいくつもあったが、私が何より感動したのは「人を笑顔にさせたい!」というエンタメ性だ。
子どもから大人まで楽しめる内容を映画として提供するという、制作側の意図やコンセプトが素晴らしい。

もちろんお菓子を売るためという策略もあるかもしれない。でも、映画や作品は『こういう感情にさせたい』という作者の目的があるとしたら、『めでたし、めでたし』で幸せな気持ちで帰ってほしいという願いが確かに伝わっていた。

このお菓子たちのコラボで、きっと気分上がるよね♪と、制作陣が意見を出し合いながらサービス精神で完成させていっただろう、と裏側にすら思いを馳せることができる。

私も素人ながら作品を執筆しているけど、なかなか読んでもらえないことには、罵詈雑言を浴び続けている『こんな自分』が書いたものは、所詮“現実逃避”や“自己満足”だから仕方ないと思っていた節があった。

だけど、退職して解放された自由で新しい自分になったら、作品は生まれ変わる気がする。
“現実逃避”や“自己満足”から、純粋に人を楽しませたい“エンタメ”へと変身を遂げるだろう。
作り手側の心境は、作品から見えなくても伝わるモノなのだ。









なんだか気になって仕方なかったので、ちょこちょこレビューを読んでいたら、どうやら普通の恋愛映画とは違うっぽい。
これは確かめねば!と、急遽鑑賞してみた。

【ネタバレ含める感想です】
先に良いところを挙げると、花が悲しみに打ちひしがれているときに、主人公が犬のマネをして花とじゃれ合い、一瞬でも花を笑顔にさせた場面。
ここはドン引きした人と、意見が割れるところではあるのもわかる。

個人的に共感したのは、友達は一人だけの主人公が犬のサクラには心を開いて、自然と笑顔になるシーン。犬とは会話できないけど、尻尾を振っていれば喜んでいることがわかる。お腹を見せていれば信頼されている気持ちが込められている。
それにより、硬くなっていた心がほどけて、喧嘩していた友達に素直に謝れた。

そんな経験から、花にも元気になってもらいたくて、自分が犬になってお腹を見せて非言語コミュニケーションを取ろうと歩み寄った。

動物や植物には、人間にはない癒しの力がある。
実際、こんなことをする人はいないかもしれないけど、だからこそ映画や小説ならではのフィクションの力があると感じた。

……しかし、同じフィクションの力でも、やはり“死”を題材にする話は苦手だ。
今年観た映画のすべてに“死”の要素が入っていた。
“死”がなくても感動する話はなかなかないものだろうか。

本作も、“死”が作為的に感じられたし、姉妹の設定もいかにもフィクションにありがちな世間が狭いご都合主義。

あ、こんな批判はしてはいけない……。
だから、しないために最初から“死”が組み込まれている話は観たくないのだ。

でも観てしまったのは、気になるレビューばかりで、どんな気持ちになるか予測不可能だったから。

皆さんのレビューには、伊藤蒼さんの長台詞の大絶賛が多く、確かにその通りだったけど、YouTubeにある程度公開しているから先に観てしまっていた。

河合優美さんの長台詞も、彼女の演技はたくさんの作品で知っているので安定の素晴らしさ。

私は最後の最後にやっと出てくる萩原利久さんの長台詞にぐっときた。
というのも、俳優としての彼をよく知らなかったのもあり、演技が上手いのかどうかわからないまま観賞しているところだった。
これまでの不穏さや内に秘めた陰キャの印象でかなり“負債”がたまっている状態から、感情をぶつける告白は一気に“借金返済”状態。

やはり予測を裏切られて、イイモノを見せられると人は感動するのだろう。

因みに一緒に観ていた母は、最後の萩原利久は若いときの織田裕二に似てると言っていて、確かに似ていて笑った😆
これもまた予想外(笑)



老人ホームでリハビリとマッサージを提供しているため、様々なお客様がいる。

アルコール依存症でご家族に暴力を振るったり、暴言を吐いたりされていたという男性の場合、いつブチ切れるかわからないから、拒否があったときは深追いしなくていいとのこと。

ある日、その方をご案内するときに「冷たい水が欲しい」と言われたので、白湯を渡したら「冷たい水って言っただろ!氷ないのか?!」とご立腹に。

正直、厨房へ行けばなくはないけど、そこまでする必要もないので、「氷ないんですよ~。こういう所は冷たいものをお出ししないので、ごめんなさい」と言った。

「氷もないのか!?」
「すみません……」
「普通どの家でも氷くらいあるだろ!?」
「ごめんなさい。ここはないんですよ~。申し訳ございません」
「しょうがないなぁ」
「すみません」

どうかブチ切れしませんように……と願いつつ謝り続けた。すると、
「アンタ悪くないんだから謝らなくていいよ」
と、期待していなかった意外な言葉でびっくり。
思わず「ありがとうございます!」と言ってしまった。


リハビリは自転車漕ぎマシンを10分間やるというものなので、スンナリやっていただけることに。
……しかし、後残り2分というところで足が止まってしまい、停止状態に。

普通の方なら「○○さん、足を動かしてください」とお伝えするのだけど、指示されたらキレ兼ねないと思い、しばらく様子を見ることに。

しばらくの間ずっと止まったままだったため、疲れて漕げなくなったかもなので、これはもう終了にしようと判断。
「○○さん、もう終わりでいいですよ」
と伝えるも動く様子がない。耳が遠い方だったので聞こえていない可能性もあると考えて、耳元でもう一度お伝えした。
「もう降りていいですよ」

そしたら、「わかってるよ!!そんなすぐ動けないんだ!!」とキレ気味……。
「ごめんなさい。もしかしたら聞こえてらっしゃらないかと思いまして……」
と言い訳じみたことを言うと、「アンタねぇ、さっきっから聞いてると……」

わぁ……これは逆鱗に触れてしまった。罵声を浴びる覚悟をして身構えた。
介護業界では謝るのが仕事のようなもの。こうやって怒られることすら、業務内容に含まれている。
……つくづく感情労働だ。

「アンタは悪くないんだから謝らなくていいんだよ!」
強い口調で怒鳴られたけど、さっきと同じ内容で拍子抜けした。

この方は認知症もあるため、先程口にした内容をそのまま繰り返した可能性もある。
だけど、この言葉がふとしたときに出るというのは、今までのご家族とのやり取りの背景からなのかも……。

もしかしたら奥様からは、謝る言葉をよく聞いていたのではないか。


私も自分の夫が飲酒後に、いやそうでなくてもストレスが溜まると暴言を吐かれていたことがあった。そんなとき、これ以上攻撃されないように、私は自衛のために謝っていたことを思い出した。
こっちに非がなく、理不尽だとわかっていても、言葉の暴力をこれ以上浴びたくない一心で。
いわば“盾”のようなモノ。

私の夫からは「悪くないんだから謝らなくていいんだよ」だなんて言葉を言われたことはなかった。

この男性も奥様に、こんなに素直に伝えていなかったのかもしれない。
それが、赤の他人の私からの謝罪で“そのとき”のことを呼び起こされて、奥様に言えなかった言葉を口にできたのだとしたら……。

咄嗟にそんな背景を勝手に想像して、グッときてしまった。



私はいつも映画を観る前に前評判としてコメントをチェックします。今回は皆さんネタバレを忠実に守っていただいていたので、物語への没入感が保てました。

私もいち映画ファンとして、マナーを遵守するため、ココから先はネタバレで感想を述べます。



冒頭から不穏な雰囲気があり、止めて止めて……と願いながら「やっぱり」な展開。

映画をよく観る人なら、20分過ぎくらいから大体の見当がつきます。

それを受け入れられない人は、その後いくらいい話でも入っていかないという気持ちもわかります。


私は、ひとまず全部観てからの総合評価派なので、所々「ん?」と思うことはありつつも、トータル的には良かったです。


ちゃんと素粒子の説明から、別レイヤーで生きていることに納得ができたので、その世界線なんだと素直に受け入れられました。


彼女たちが『この世』で生きていないことに、勝手に「気の毒」とか「可哀想」と決めつけて観ていたことに次第に気づいていくことに。


3人の生活は楽しそうであり、成長もするし、食べ物も食べている。

私たちが勝手に想像する死後の世界とはまったく違う。


うちの父親も、ある日突然亡くなったので、もしその世界が本当だったら嘆き悲しむ必要はないな、という希望にもなりました。

もちろん、それが本当かどうかは実際亡くなってみないとわからないこと。

でも、作中でも言っていたように「ありえないなんてことはありえない」のかも。



犯人がまったく反省も罪悪感もなかったことに、観客の私たち全員がお母さんと同じ気持ちになったでしょう。

しかし、そこで包丁でブサリと復讐しても優花は戻ってこないし、気分が晴れるわけではない。

それなのに、包丁を用意していたという気持ちを非難する気にはならない。


母親が逃げているときの「優花、逃げて!」という言葉にはグッときて、今でも胸が熱くなる。

そして月形のクッキー……。

このシーンは本当に胸に残ります。


犯人が車に轢かれて、罪の報いを受けるというのを観ていたときはホッとしつつも、それでいいのか?という気持ちに。

物語上、ご都合主義でもあるし、かといって他に手段があったのだろうか?

改心して更正するのがいいというのもご都合主義かもしれない。


勝手に命を奪われた側としては、「どうして?」という疑問と反省してほしいという願いがある。許せないという気持ちが消えないから。

私も理不尽な目に遭うとそう思うことがある。


でも、そこに焦点を合わせると、思っていたような答えや反応は得られないものだ。

自分が納得いくような言動をする『他者』はいないから。

自分の納得いく言動ができるのは、結局『自分』だけ。


小さいうちに亡くなった優花の、成長した幸せな姿は見えないから、母親からはいつまでも『人生が短く終わり、心半ばで可哀想な優花』のまま。


でも、この物語での優花は楽しくて笑うこともできているし、丁寧に生きている(別世界で)。

自分の子どもであっても、納得いかない言動をする『他者』なのだ。

「ありえないなんてことはありえない」のだから。


そしてここでは、いい意味での『納得いかない』になる。





私と血の繋がりのある身内は母と姉だけ。
父と母の妹は亡くなったが、私はどちらともと関係性が薄かったので、会っていないだけでまだ生きているのではないかと思うくらい。

しかし、母は叔母とは親友のように仲が良く、父とは50年連れ添った仲だ。
二人がいなくなって、ポッカリ空いた穴を埋めるにも、姉は知的障害者で 自分は何もしない癖に 母に命令ばかりする、ワガママ放題の問題児だ。
と言っても50過ぎのオバサンだけど……。

今までは母には父や叔母もいるしで、 私は離れて暮らしているから、元々年に何回かしか母に会っていなかった。
でも、二人が亡くなってからは月1回は母と会って、ランチと映画に行く日にしている。

単純に自分が観たい映画に母を付き合わせているだけなのだけど。
それでも毎年母の日にはお花と、誕生日にはプレゼントもあげていて、そのとき必ず言われるのは、
「お姉ちゃんと違って、アンタはいいね。あのコにもらったことも優しい言葉もかけられたこともないよ」
と言われる。

別にそれを言われたくてしている訳ではないけど、自分の中でも知的障害者と比べられても……と思いつつも、それが当然だと思っていた。


つい先日。
母とランチ&映画の日で待ち合わせをしていると、母は必ず遅れるのでいい加減嫌になった。
いくら映画の上映時間には間に合うとしても、こう毎回毎回だと腹が立つ。

謝りはしても必ず言い訳をするし、信用できなくなる。しかもLINEではいつも泣いている絵文字をいっぱい付けて謝罪するので、それも不愉快だった。

それは、いつも姉とのメールで何か謝罪するときに、姉の場合は絵文字をたくさん付ければ許してくれるということから来ている。
そんな子供騙しの手法に、私がごまかされるはずがないのに。

私は、
「ごめんなさいって後から謝れば済むと思ってる甘さは、こっちをなめてる証拠だよ。約束守ったことないね」
と言い逃れできないような真っ当なことを言い、滔々と説教をした。

すると母は逆ギレして、
「アンタよりお姉ちゃんのほうがいいわ!」
と言い放った。

これには私は空いた口が塞がらなかった。
しかし、私はこのときの“母の立場”を職場で体験していることに気づいた。


私は職場の老人ホームで、リハビリとマッサージを行っている。
認知症の方がほとんどなので、その方々にはこちらの都合でランダムな時間にリハビリをさせていただき、頭のしっかりした方にはリハビリの時間を決めている。

ある日、電車が遅れてしまい、頭がしっかりされている方のリハビリの時間に間に合わないため、その旨を先に伝えに行った。

すると、その日はちょうど月に一度の理美容のカットの日だった。
もう美容師さんにリハビリの後にお願いしてしまったらしく、自分もトイレが近いから時間がハッキリしていないと困る、とご立腹だった。

私が見るからに、美容師さん側は、特に時間が前後しようが、他の人を次々やっているだろうし、外の店舗の美容室の予約とは違うから大丈夫なはずだ。
そう言っても、もう予約したものだと思ってしまい、相手に悪いと聞かず……。トイレに行くタイミングもあるから、時間が決まっていないと困ると、ヒステリックに怒鳴り始めた。

確かにそもそも時間に遅れてしまった私が悪いのだ。それを承知の上で言わせてもらう。
もし認知症の方ならそんなアレコレ考えられないので、こちらの都合でご案内しても何も言われない。
だから正直、頭がしっかりしている人より気楽に接することができるのだ。

母の話に戻ると、母は泣いている絵文字をいっぱいつけて謝罪すれば許してくれるという、幼稚な手段が使える知的障害の姉との生活に慣れている。
だから、真っ当な説教をし、謝罪しても許さない私に面倒くささを感じる気持ちはよくわかる。

私は母の日や誕生日のプレゼントができたり、旅行に連れて行けたりという“普通の娘”だ。
姉にできないことができる自分が、母にとって孝行娘になっているはずだ、と心のどこかで姉を見下す気持ちがあったと思う。

しかし、母の立場になってみるとそれは違う。
母は、生前の父や叔母の世話をよく焼いていた。二人がいなくなって、母を頼りにするのは“永遠に子供”の姉だけ。

母は私にとっては、ルーズでズボラでガサツな頼りない存在だ。
でもそんな母にベッタリで、いつまでも必要とし、テンプレートの謝罪で簡単に過ちを許す“普通じゃない”姉のほうが母にとってはいいのだろう。

至らないところがたくさんある母を唯一、頼りにし、必要とする姉。

私にはできない。

亡くなった父や叔母の空いた穴を埋めてあげられるのは、姉のほうなのだ。

「母をよろしく」
と言いたい。

それに、私だってそのほうが安心だ。
母は姉の面倒で大変だと愚痴を溢していたが、実は“自分が必要とされている状態”を望んでいるのだから。

母が幸せなら、それでいい。

まさに後半は嗚咽レベルに泣きまくった。

私は基本的に『死』を感動させる題材に入れる作品は好まないのだけど、こちらはあらすじに全面的には出ていなかったため、蓋を開けてみるまでわからなかった。


やはり『死』で泣かされるのは、王道過ぎる。それにまんまと乗って泣いてしまう自分の単純さが嫌でもあり、人として正常だという普通さに安心しつつ、何とも複雑。


この作品では、人の死にかんしての願い事は使えないという約束事があり、ただそれは叶えられない訳ではなく、その代償としての不幸があるという。

だから、みんなそれは使わないのだけど、父親から自分が産まれるときに無事産まれるためにと、使ってしまったことを聞かされた少年の葛藤があった。


その願いがあったから、自分はこうしてここにいる。だけど、その代償に友人が病気がちで産まれてしまったとか、別の友人のお母さんが亡くなってしまったことさえも、自分の(父の願いの)せいだと思い込んでしまった。


これはさすがに違う!と、彼に教えてあげたいと思っていたら、その友人達のほうから「違うんだよ」と言ってくれて、私の心も救われた。


これって、ファンタジーの話だと思っていたけど、現実にも言えることだなと思った。

何か約束を破って、ズルしたり、ごまかしたりしてうまくいかせたことがあったとしても、それは心のどこかに罪悪感があるから、何か『罰』のようなものを勝手に感じてしまう。

だから、不正を犯して達成できたものに対しては堂々とできない。


それは、『死』にかんすることを願わなかったとしてもそうだ。

例えばピアノが上手くなるようにとか、合格するように、という願いであっても、やはり自分の力ではないという負い目から、褒められても本気で喜べないことも言える。


そうすると、願い事って何がいいだろう。


作中では、仲間の最後に届くはずのないピアノの音色や桜の花弁のダンスを見せてあげるという願いだった。

最後に彼と話もできて、これ以上ない素敵な送り出し方に、彼の死は決して悲しくなかった、お別れがちゃんとできた、と『死』を受け入れられたというラスト。


代償ありの『永遠の命』を願うより、現状を受け止め、彼にとっても仲間にとっても『悲しくない死』にするという願い。

なんて美しいのだろう泣くうさぎ


最後に泣いたのは『死』が題材にはなっていたものの、あたたかい涙だった。

タイトルは、『サンライズ・サンセット』じゃないという意味がすごくよくわかった。

日は沈むけど、また昇る!


クドカン作品は、コメディで入りやすくしておいて、その時代ならではの問題提起や、誰もが心の中で思ってることの代弁を登場人物にさせているから、ただ「おもしろかった!」では終わらせない。


違和感などのモヤモヤを切り取るのが上手で、同じこの時代を生きてきて、思うことは一般庶民も、大物脚本家でも同じなんだな、と一人で観てもいろいろと分かち合った気になってしまう。


手の届かない雲の上の存在のはずが、作品を通して距離感が近くなる。それがクドカンマジック。


今回は、主人公のセリフの中で「震災なんてどうでもいい!」と叫ぶところは、よく言った!と胸がすく思いだった。

もちろん当事者を目の前には、言っちゃいけないことだから、映画というフィクションの力だからこそ。


当事私は、リラクゼーションの仕事をしていたので、『自粛』と称して短縮営業や、お客様が減っていったことに『仕方ない』と受け入れていた。


コロナ禍でも不要不急の外出は控えるようにとか、エンタメが不要だと言われていたことに、311の前例があった分、受け入れるのが早かった。


でも、こうして過ぎてみると、アレはなんだったんだろう?と思ってしまう。

決して「どうでもいい」訳ではないものの、過ぎてしまったことも、これからまた起きるかもしれない不安は、「どうでもいい」ことにしてしまっていいかも。


個人の幸せを考えて、辿り着いた家族の形が秀逸だった。

結婚に落ち着くハッピーエンドじゃ、ありきたり過ぎる。

やはり未亡人は、そんなに次から次へと切り替えができる訳ではなく、だからってパートナーを諦める必要はないのだ。


「どうでもいい」と言いながらも、ちゃんと話し合って辿り着いた関係性のようで、お互いの幸せに寄り添ったラストが素敵だった。


屈託なく、人たらしの菅田将暉の役も良くて、彼の幸せを見届けたという多幸感でいっぱいだった。

いろいろと意外な映画だった。もっと笑いが多いかと思ったし、まさか泣かされるとは……。

芦田愛菜ちゃんの演技が上手すぎて、感情移入してしまった。阿部サダヲが、愛菜ちゃんの治療室の向こう側から、励まそうとして笑わせているところで泣けました。


そして、体の中ではものすごい戦いが行われていて、フカセの役どころは敵だけど、ああなってしまったドラマ性や同情の余地もあって複雑だった。

俳優じゃないのに、ああいう不気味な役が上手いことにも感心してしまった。


先日ちょうど、健康診断があり、赤血球とヘモグロビンの数値が低かったので、体の中で永野芽郁ちゃんが一生懸命酸素を運んでるのが目に浮かんだ。人手不足で酸素を運びきれない、とブラックな労働環境をなげいているようだ。


少ない赤血球とヘモグロビンたちで、なんとか頑張ってもらっている私の体の中。労働環境をどうにかホワイトにさせたい!と、レバーや小松菜、ほうれん草、牡蠣やあさりなどを食べて鉄分を補給しようと頑張ります!



……因みに、私の今年観た映画ベスト5は、

⑤侍タイムスリッパー

④九十歳。何がめでたい

③からかい上手の高木さん

②カラオケ行こ!

そして1位は、

①ソウルフル・ワールド

あんなに嗚咽レベルで泣いた映画はない。観た後は世界が違って見えたという経験でした。


2位以降は、みんな笑って泣ける清々しい映画たちでした。観て良かったーと思えるのは映画の醍醐味。


その逆で、観る前より観た後のほうが気分が下がったワースト1は、『まる』です。

期待はずれだったし、心がざわざわしたままにさせられたので(勝手になっただけだけど)、お口直しにすぐに『侍タイムスリッパー』を観に行ってしまったくらい。


『まる』に関しては、勝手に予告から面白そうな期待があって、それに裏切られた感ですね。きっと、だれかにとっては面白いだろうけど、not for  meだっただけ。


時間とお金を費やして、嫌な気持ちになるという体験から、間違いない映画を観たくなるものです。

いわゆるアート映画を良い!と言える、余白を楽しめる感性でいたいと思いつつ、やはり誰一人漏れなく置いてけぼりにしない、王道なエンタメが刺さる自分。普通過ぎる~(笑)



『まる』を観た後に、次回は絶対間違いなく面白い映画を観たくなった。

いわば、“口直し”だ。


『まる』が楽しめた人には申し訳ないのだけど、これはもう自分の楽しむセンス?がなくなってきているんじゃないかと、“楽しい”ってなんだっけ?という確かめにも近い。


みんなが面白いと言っているモノを、自分はちゃんと楽しめるのだろうか?だなんて、自信がなくなってきた……。


しかし、『侍タイムスリッパー』は、そんな私にちゃんと応えてくれた!

触れ込みは良くても時代劇なんて興味ないし、と食わず嫌いをしていたけど、これぞエンタメ!


皆さんが絶賛する通り、老若男女漏れなく楽しめるってスゴイし、応援や紹介したくなる気持ちがわかる。


本来は、みんなが言うから観てみるだなんてミーハーなマネはしたくない天の邪鬼だけど、もうこれ以上観る映画を間違えたくない一心で、つい流行りモノに手を伸ばしてしまった。


内容の感想は、皆さんが仰る通りなので書かないけど、芸術作品(映画もその1つとして)は“理解できない人は置き去りにして駆け抜ける!”みたいな、誰か一人にでも刺さればいいってのがカッコイイと思っていた。


だけど、私みたいな楽しめるセンスがない人さえも、取りこぼすことなくちゃんとエンタメ世界へと連れて行ってくれて、一緒に笑わせてもらえるって素敵なこと。


多くの人にいいと思ってもらえる作品って、広く浅くで消費されて、忘れられるのも早いと思っていたけど、この作品はちゃんと心に届けてくれたし、期待以上だった。


比較しちゃダメなのはわかっているけど、『まる』は出演者や監督や題材、予告編から期待値上がり過ぎていて、『侍』はその逆だったのもある。

そもそも時代劇で、無名の役者に監督。そこに期待は0だった。


だから、評判が上がってからも、なかなか観るのも躊躇していた。

そんな想定外の客層の一人である私の心を動かすことができるなんて、この映画自体に“夢”がある。


私も作家の端くれであるから、モノづくりをしているすべてのクリエイターに、希望を与えてくれた!

次こそは自分の番かも?と……。






酷評まではいかないけど、いわゆる『見る人を選ぶ』という作品だったんだろうな。

✕まではいかないけど、△。


ざっとあらすじがわかった上で鑑賞したので、、“アーティストが自分の好きな絵を描くことを選ぶという結末”などという想像できる以上の何かがあるはず!と、そのわからない“何か”を期待していた。


でも、それ以上の“何か”はなく、あえていうなら最後の堂本剛の曲が良かったということくらい。


私の読解力の問題かなと思って、他の人の感想をYouTubeなどで視聴すると、同じようにイマイチなご意見があったことに、少しホッとしてしまった。


もちろん、楽しまれた方もいらしたし、一緒に行った母も面白かったと言っていた。なにせ母は、あの『君たちはどう生きるか』も面白かったと言う人だ。

そのとき私は『?』が浮かんだまま、ポカンとしながら映画館を後にし、帰宅後に考察動画を観まくってやっと納得した。

でも、本来は映画単体で面白く思えるべき。


『まる』については、いつ面白くなるのかな?と期待しながら観ていたが、その気持ちが置いてきぼりのまま、映画は進んで行った。

とはいえ、自分がつくるとしたらこんなに面白くなるのに!だなんてことは言えない。それなのに文句を言うなんて……。


だから私がこの映画と合わなかっただけだろう。

それにしても、時間をつくってお金を払って、眼精疲労とも戦いながらの映画鑑賞だから、観る前よりも嫌な気持ちにはなりたくないものなのだ。


“嫌な気持ち”ってほどではないにしろ、期待ハズレだったり、モヤモヤしたりすればやはり観なければ良かったと思う。


いろんな素晴らしい映画を観すぎているせいか、目が肥えて“面白い”のハードルが上がっていって、更新しまくっているのもある。


起承転結のハッキリしていないアート系映画を“面白い”と言える人間になりたい。でも実際は、映画にすべてを委ねて、自力で余白を埋められない、他力本願人間だ。


『まる』の沢田は、自力で自分の道を選んだというのに……。