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まさに後半は嗚咽レベルに泣きまくった。
私は基本的に『死』を感動させる題材に入れる作品は好まないのだけど、こちらはあらすじに全面的には出ていなかったため、蓋を開けてみるまでわからなかった。
やはり『死』で泣かされるのは、王道過ぎる。それにまんまと乗って泣いてしまう自分の単純さが嫌でもあり、人として正常だという普通さに安心しつつ、何とも複雑。
この作品では、人の死にかんしての願い事は使えないという約束事があり、ただそれは叶えられない訳ではなく、その代償としての不幸があるという。
だから、みんなそれは使わないのだけど、父親から自分が産まれるときに無事産まれるためにと、使ってしまったことを聞かされた少年の葛藤があった。
その願いがあったから、自分はこうしてここにいる。だけど、その代償に友人が病気がちで産まれてしまったとか、別の友人のお母さんが亡くなってしまったことさえも、自分の(父の願いの)せいだと思い込んでしまった。
これはさすがに違う!と、彼に教えてあげたいと思っていたら、その友人達のほうから「違うんだよ」と言ってくれて、私の心も救われた。
これって、ファンタジーの話だと思っていたけど、現実にも言えることだなと思った。
何か約束を破って、ズルしたり、ごまかしたりしてうまくいかせたことがあったとしても、それは心のどこかに罪悪感があるから、何か『罰』のようなものを勝手に感じてしまう。
だから、不正を犯して達成できたものに対しては堂々とできない。
それは、『死』にかんすることを願わなかったとしてもそうだ。
例えばピアノが上手くなるようにとか、合格するように、という願いであっても、やはり自分の力ではないという負い目から、褒められても本気で喜べないことも言える。
そうすると、願い事って何がいいだろう。
作中では、仲間の最後に届くはずのないピアノの音色や桜の花弁のダンスを見せてあげるという願いだった。
最後に彼と話もできて、これ以上ない素敵な送り出し方に、彼の死は決して悲しくなかった、お別れがちゃんとできた、と『死』を受け入れられたというラスト。
代償ありの『永遠の命』を願うより、現状を受け止め、彼にとっても仲間にとっても『悲しくない死』にするという願い。
なんて美しいのだろう
最後に泣いたのは『死』が題材にはなっていたものの、あたたかい涙だった。
タイトルは、『サンライズ・サンセット』じゃないという意味がすごくよくわかった。
日は沈むけど、また昇る!
クドカン作品は、コメディで入りやすくしておいて、その時代ならではの問題提起や、誰もが心の中で思ってることの代弁を登場人物にさせているから、ただ「おもしろかった!」では終わらせない。
違和感などのモヤモヤを切り取るのが上手で、同じこの時代を生きてきて、思うことは一般庶民も、大物脚本家でも同じなんだな、と一人で観てもいろいろと分かち合った気になってしまう。
手の届かない雲の上の存在のはずが、作品を通して距離感が近くなる。それがクドカンマジック。
今回は、主人公のセリフの中で「震災なんてどうでもいい!」と叫ぶところは、よく言った!と胸がすく思いだった。
もちろん当事者を目の前には、言っちゃいけないことだから、映画というフィクションの力だからこそ。
当事私は、リラクゼーションの仕事をしていたので、『自粛』と称して短縮営業や、お客様が減っていったことに『仕方ない』と受け入れていた。
コロナ禍でも不要不急の外出は控えるようにとか、エンタメが不要だと言われていたことに、311の前例があった分、受け入れるのが早かった。
でも、こうして過ぎてみると、アレはなんだったんだろう?と思ってしまう。
決して「どうでもいい」訳ではないものの、過ぎてしまったことも、これからまた起きるかもしれない不安は、「どうでもいい」ことにしてしまっていいかも。
個人の幸せを考えて、辿り着いた家族の形が秀逸だった。
結婚に落ち着くハッピーエンドじゃ、ありきたり過ぎる。
やはり未亡人は、そんなに次から次へと切り替えができる訳ではなく、だからってパートナーを諦める必要はないのだ。
「どうでもいい」と言いながらも、ちゃんと話し合って辿り着いた関係性のようで、お互いの幸せに寄り添ったラストが素敵だった。
屈託なく、人たらしの菅田将暉の役も良くて、彼の幸せを見届けたという多幸感でいっぱいだった。
いろいろと意外な映画だった。もっと笑いが多いかと思ったし、まさか泣かされるとは……。
芦田愛菜ちゃんの演技が上手すぎて、感情移入してしまった。阿部サダヲが、愛菜ちゃんの治療室の向こう側から、励まそうとして笑わせているところで泣けました。
そして、体の中ではものすごい戦いが行われていて、フカセの役どころは敵だけど、ああなってしまったドラマ性や同情の余地もあって複雑だった。
俳優じゃないのに、ああいう不気味な役が上手いことにも感心してしまった。
先日ちょうど、健康診断があり、赤血球とヘモグロビンの数値が低かったので、体の中で永野芽郁ちゃんが一生懸命酸素を運んでるのが目に浮かんだ。人手不足で酸素を運びきれない、とブラックな労働環境をなげいているようだ。
少ない赤血球とヘモグロビンたちで、なんとか頑張ってもらっている私の体の中。労働環境をどうにかホワイトにさせたい!と、レバーや小松菜、ほうれん草、牡蠣やあさりなどを食べて鉄分を補給しようと頑張ります!
……因みに、私の今年観た映画ベスト5は、
⑤侍タイムスリッパー
④九十歳。何がめでたい
③からかい上手の高木さん
②カラオケ行こ!
そして1位は、
①ソウルフル・ワールド
↑
あんなに嗚咽レベルで泣いた映画はない。観た後は世界が違って見えたという経験でした。
2位以降は、みんな笑って泣ける清々しい映画たちでした。観て良かったーと思えるのは映画の醍醐味。
その逆で、観る前より観た後のほうが気分が下がったワースト1は、『まる』です。
期待はずれだったし、心がざわざわしたままにさせられたので(勝手になっただけだけど)、お口直しにすぐに『侍タイムスリッパー』を観に行ってしまったくらい。
『まる』に関しては、勝手に予告から面白そうな期待があって、それに裏切られた感ですね。きっと、だれかにとっては面白いだろうけど、not for meだっただけ。
時間とお金を費やして、嫌な気持ちになるという体験から、間違いない映画を観たくなるものです。
いわゆるアート映画を良い!と言える、余白を楽しめる感性でいたいと思いつつ、やはり誰一人漏れなく置いてけぼりにしない、王道なエンタメが刺さる自分。普通過ぎる~(笑)
『まる』を観た後に、次回は絶対間違いなく面白い映画を観たくなった。
いわば、“口直し”だ。
『まる』が楽しめた人には申し訳ないのだけど、これはもう自分の楽しむセンス?がなくなってきているんじゃないかと、“楽しい”ってなんだっけ?という確かめにも近い。
みんなが面白いと言っているモノを、自分はちゃんと楽しめるのだろうか?だなんて、自信がなくなってきた……。
しかし、『侍タイムスリッパー』は、そんな私にちゃんと応えてくれた!
触れ込みは良くても時代劇なんて興味ないし、と食わず嫌いをしていたけど、これぞエンタメ!
皆さんが絶賛する通り、老若男女漏れなく楽しめるってスゴイし、応援や紹介したくなる気持ちがわかる。
本来は、みんなが言うから観てみるだなんてミーハーなマネはしたくない天の邪鬼だけど、もうこれ以上観る映画を間違えたくない一心で、つい流行りモノに手を伸ばしてしまった。
内容の感想は、皆さんが仰る通りなので書かないけど、芸術作品(映画もその1つとして)は“理解できない人は置き去りにして駆け抜ける!”みたいな、誰か一人にでも刺さればいいってのがカッコイイと思っていた。
だけど、私みたいな楽しめるセンスがない人さえも、取りこぼすことなくちゃんとエンタメ世界へと連れて行ってくれて、一緒に笑わせてもらえるって素敵なこと。
多くの人にいいと思ってもらえる作品って、広く浅くで消費されて、忘れられるのも早いと思っていたけど、この作品はちゃんと心に届けてくれたし、期待以上だった。
比較しちゃダメなのはわかっているけど、『まる』は出演者や監督や題材、予告編から期待値上がり過ぎていて、『侍』はその逆だったのもある。
そもそも時代劇で、無名の役者に監督。そこに期待は0だった。
だから、評判が上がってからも、なかなか観るのも躊躇していた。
そんな想定外の客層の一人である私の心を動かすことができるなんて、この映画自体に“夢”がある。
私も作家の端くれであるから、モノづくりをしているすべてのクリエイターに、希望を与えてくれた!
次こそは自分の番かも?と……。

酷評まではいかないけど、いわゆる『見る人を選ぶ』という作品だったんだろうな。
✕まではいかないけど、△。
ざっとあらすじがわかった上で鑑賞したので、、“アーティストが自分の好きな絵を描くことを選ぶという結末”などという想像できる以上の何かがあるはず!と、そのわからない“何か”を期待していた。
でも、それ以上の“何か”はなく、あえていうなら最後の堂本剛の曲が良かったということくらい。
私の読解力の問題かなと思って、他の人の感想をYouTubeなどで視聴すると、同じようにイマイチなご意見があったことに、少しホッとしてしまった。
もちろん、楽しまれた方もいらしたし、一緒に行った母も面白かったと言っていた。なにせ母は、あの『君たちはどう生きるか』も面白かったと言う人だ。
そのとき私は『?』が浮かんだまま、ポカンとしながら映画館を後にし、帰宅後に考察動画を観まくってやっと納得した。
でも、本来は映画単体で面白く思えるべき。
『まる』については、いつ面白くなるのかな?と期待しながら観ていたが、その気持ちが置いてきぼりのまま、映画は進んで行った。
とはいえ、自分がつくるとしたらこんなに面白くなるのに!だなんてことは言えない。それなのに文句を言うなんて……。
だから私がこの映画と合わなかっただけだろう。
それにしても、時間をつくってお金を払って、眼精疲労とも戦いながらの映画鑑賞だから、観る前よりも嫌な気持ちにはなりたくないものなのだ。
“嫌な気持ち”ってほどではないにしろ、期待ハズレだったり、モヤモヤしたりすればやはり観なければ良かったと思う。
いろんな素晴らしい映画を観すぎているせいか、目が肥えて“面白い”のハードルが上がっていって、更新しまくっているのもある。
起承転結のハッキリしていないアート系映画を“面白い”と言える人間になりたい。でも実際は、映画にすべてを委ねて、自力で余白を埋められない、他力本願人間だ。
『まる』の沢田は、自力で自分の道を選んだというのに……。
9月に観た2本目。
私が最近、常々考えることは、カタルシスを得るためのあからさまな障害や困難は必要なのか?
音楽モノは必ずしもサクセスストーリーでないと感動しないのか?
それらを確かめるべく、対立や衝突のない、ドラマチックじゃない映画だという触れ込みの映画を観てみた。
それはそれは、ただただ『眼福』になるキレイな色使いや可愛らしい声にほっこりした。
ラストの『水金地火木……』の演奏には、普段はクールなきみちゃんの熱量に感化されて、涙が出てしまった。
確かにそのときは、感動し、帰りは『水金地火木……』を鼻歌混じりに軽い足取りで帰宅できた。
しかし、『お土産』になるほどの余韻や考えさせられるようなメッセージがないと、時間と共に忘れてしまう。
冒頭のエンタメには困難が必要か?の話は、私の(というか私たちの)日常が辛いと、感情移入できる人物にはどうしても苦労が伴うことだろう。
『きみの色』のようなキラキラした世界は、目の保養で現実逃避になる。
だからどこか、作品と自分との距離を感じてしまう。
でもだからって、わざわざ感動のために人物にいじめや悩みを与えるのも違う気がして、答えが出ない。
もっと単純に、『きみの色』良かったー♪と言ってみたい。
いや、良かったはずなのに、どうしてもカタルシスを得る映画のほうが、心に残りやすいからだろう。
理想をいえば、ほっこりや明るいテイストで、誰も悪い人も出てこない世界。それでいて余韻やカタルシスを得る作品だ。
今年でいえば『カラオケ行こ!』『からかい上手な高木さん』『90歳何がめでたい』
笑ったし、最後は泣いた。
まさかこの映画で泣くなんて……というギャップ萌えが私にとってのエンタメ!
10月になってしまったけど、9月に観た映画『ラストマイル』について。
観客ほとんどと同じ意見だけど、夢中になって観ていたMIU とアンナチュラルがどう絡んでくるのか?が、期待していたほど多くなく、かといってガッカリという訳でもなく、結果的にちょうど良く胸熱だった。
個人的に「おっ!」と思ったのは、冒頭で大人数の派遣社員が流れるように職場へと入って、作業している場面が、自分の今までの仕事と重ねて観てしまい、私もこの大勢の中の一人だったよなぁと客観的に観れた。
そしてラスト!
地道に働いているドライバー親子が助けて、危機一髪で命を救ったときは泣けてしまった。この脚本家(野木さん)の話はいつも汗水流してる労働者に、スポットライトを当ててくれるなぁ、すごいなぁと感動した。
大勢の中の一人ではなく、ちゃんと『一人』の力は偉大なんだとエンタメ性を使って(説教くさくならずに)わからせてくれる。
ファンサービスも忘れず、エンタメの力もすごいけど、それだけに留まらない。
メッセージが必ずあるから、「面白かったー♪」で終わらず、日常でも考えさせる。日常を変えさせる強さがたまらない。
だから、野木作品は忘れられない力を持っている。
この映画を観る一週間前に、予習がてら『インサイドヘッド』をテレビで観たせいか、話の流れに既視感が……。
いや、でも思春期の(というか人間の)闇の部分もしっかり描きつつ、目で楽しませる映像の美しさはさすがピクサー。
深い話でもあり、子どもでも楽しめるエンタメのサービス精神は素晴らしいです!
考察系も後々YouTubeを観たり、楽しみが後まで続くけど、こちらはわかりやすいのでちゃんと自分で咀嚼できて自己完結できるのが良かった。
私の推しキャラは……
『ナツカシ』!
どんなに苦いエピソードも、黒歴史や赤っ恥になろうとも、いつかは「懐かしい思い出」としてすべて、ひと括りに。
人はいつか歩んできた人生を「懐古」するのでしょう。
だから、出番は今じゃない!
予告編やポスターでは、痛快コメディ系かな?と、テレビでやったら観ようと、『ルックバック』を観る予定だった。
でも『ルックバック』は漫画として読めるし、人の死が入っている内容はあまり観たくないため、急遽『九十歳、何がめでたい』を鑑賞することに。
結果、個人的には正解だった。
多分『ルックバック』は、若い人にぶっ刺さる内容だろう。だけど、『48歳、何がめでたい』と思って誕生日を迎えたばかりの私には、断然コッチだった。
もちろん歳ではなく、好みが関係しているからただの個人的な価値観だけど、作中の『この世の中生きづらいあるある話』にはかなり共感できた。
先日も、銀行で口座開設するのに直接銀行へ行ったら、ネットで予約しないとできなかったり、今は通帳無しでアプリで管理するシステムが主流だったりには、便利であり、面倒なようで複雑な気持ちだった。
スマホがないと何もできないというのは、使い慣れていない人や持っていない人には逆に不便なのだ。
でも、そう思っているのが自分だけではなく、他にもいるだけで、一緒に文句を言えるだけでも元気が出るものなのだ。
作家と編集者という関係だけではなく、『生きづらさを感じている同士』として、思いの丈を言い合えることで、互いに前進していく様にはカタルシスを感じた。
吉川は、ビジネスライクの編集者としてではなく、きっと愛子先生のお困りごと(テレビやFAXを直すこと)を手伝っていたのだろうと思う。愛子先生も、孫の誕生日会に吉川を呼んで、家族のように付き合っていた。
そんなやり取りも、相手が嫌がればパワハラにもなってしまう。きっと若い世代からは疎ましく思われることだろう。
アップデートはもちろん必要。
だけど大切な交流なくして、いい仕事はできないような気もした。
最後の愛子先生のスピーチに、ウルッときてしまった。
それは、最初は「どっこいしょ」と、歳相応にしんどそうに体を動かし、娘の歳もわからなくなっていた愛子先生の大変身。
着物を着て髪もセットして、背筋もしゃんとしてハキハキと軽快に話すように変わっていった、元気の秘訣について。
お年寄りには「ゆっくりして」とは言ってはいけないのだ。
ついていけない『今』に、右往左往しながら、文句を言いながらも頑張って適応させつつ、現役世代に混じって自分も『現役』でいること。
体が元気であれば、自分を奮い立たせることはできる。
私もあと50年?
誰かしらの役に立つ、何かしらができる人間でいたい。