『ちいかわ』で、ここまで情緒が揺さぶられるとは思ってなかった。ただカワイイだけのほのぼの系なら観ないと思ってたはずが、鑑賞後は寧ろほのぼの系になってくれ!!と願うような気持ちにさせられた。ただ『カワイイだけ』の何が悪い?とすら、観る前の自分に問いたくなった。


【ここからネタバレありで感想を書きます】

一緒に観た母は、ただウサギのラップが良かったとか、みんなで力を合わせて戦うところが見応えあったとか、子どものような感想だった。だからきっと、深く考えなくても老若男女楽しめる内容という、エンタメ作品になっているのだろう。


私が一番印象的だったのは、ヒトハがフタバを救うために食べさせた人魚の煮付けにより、フタバが一瞬妄想するところ。これから訪れる不死と永遠の孤独を恐れ、ヒトハにも人魚を食べさせようとしたら、最初に食べさせたのはヒトハのはずなのに拒否していたシーンは、妙なリアルさがあった。


こんなシチュエーションに、自分はなるはずがないのに、食べさせたほうも、拒否したほうにも共感してしまった。

二人はもう共犯になってしまったから、お互い裏切ることも離れることさえできない。

ただの『仲良し』だけではいられなくなる。


『ジンメルの秘密論』によると、秘密があると誰もが見ている表の世界と平行して、その秘密を知るものだけが入れるもう一つの世界が生まれるという思想がある。

例えば社会の中で、殆どの人が知らない計画を二人だけが知っているとすると、二人は同じ職場にいながら他の人とは違う現実を見ている。表面上は普通に会話していても、ある言葉や目線だけで裏側の意味が通じる。

秘密というのは情報を隠すだけじゃなく、極めて閉鎖的な人間関係をつくる。


この二人だけはすべての出来事の意味が違って見える、これを第二の世界という。二人は秘密を守っている限り誰よりも深く結ばれている。片方が何を怖れているか、もう片方だけが知っている。なんでサイレーンから逃げるのかも、体が普通じゃないのかも、すべての「なんで?」は全部わかっている。この理解は親密さではあるけど同時に怖れでもある。お互いを人質にした親密さであると同時に極めて閉鎖的な共依存関係にある。


二人の場合は不死なのでその関係には終わりがない、未来永劫続く二人だけの閉鎖的な共依存関係がホラー……。


東野圭吾や湊かなえが描く、誰かを思って犯してしまう罪や、犯人に共感してしまう作品に重なるものがある。


ラストは、個人的にはヒトハ・フタバがサイレーンのところへと出向き、自首するのかと思ったが、まさかの逃亡( ̄□ ̄;)!!

でもこれもまたリアリティがあって、責められない。


希望を描くのって難しいんだな、と。メデタシ・メデタシで終わらせるのは、できなくはないものの、フィクションの世界だとご都合主義で感動できない。

現実世界でも、何とかせねばっていうエネルギーより、こうやってみんなで辛いって盛り上がるほうがおもしろいのかも。作り手もそうなっている。

後半で、ちいかわがフタバ達に何も言えなかったのは、自分が彼らの立場になったらハチワレのために同じことをしたかもしれない、と想像して問いただせなかったのかも。それが、人魚の命を奪うことになったとしても、島民に犠牲者が出ることになったとしても……。

人は未来がわからないまま選択し続けないといけない。
自分の見えている世界の中でしか判断ができないから、目の前の友達がこの世からいなくなるくらいなら、と後先考えられなくなってしまうかもしれない。

この作品は、ラストシーンから救いようがない、と捉えられるだろう。しかし、観る前は「ただカワイイだけのほのぼの系なら観ない」と思っていた私が、鑑賞後には「いや、ほのぼの系がいいだろ!」という気持ちに変わったように、バッドエンドを観たことで逆説的に幸せを望む心の変化をもたらせる、不思議な話。

ホラーだったけど、ムダに恐がったわけではなく、『平和を願う魔法』をかけられたような荒療治系作品だった。



【ネタバレを含みます】

この映画の感想は、純粋に作品として「素晴らしい」と言いたい。だけど、あまりに内容が当事者過ぎるため、現実と結びつけるとモヤモヤが止まらず、スッキリしない。

まずは印象に残ったセリフ
「不可能なものは不可能、可能になるまではね」
↑
この作品は不可能だと思ったことを可能にするまでの過程の話。作中でも「今は過渡期」だと言っていたように。

「あなたに会うための準備ができていたのかもしれない」
↑
偶然性について、ただの偶然にしてしまうには、足りないくらいの出会いだったとき、こんな感じで説明できると納得がいく。

原作本の作者の磯野真穂さんが、インタビューで“記号”として扱われることに関して、こんなコメントをしていた。
「あなたは “記号”として扱われることに、良くないという感覚をお持ちですか?
私は必ずしもそうは思わない。
初対面同士はこういう風に関わりましょう、とか関わり方としての形式を持つものだから。
どうやって関わったらいいかさっぱりわからなければ、見えないルールに自分を入れ込むことによって、人との関わり方を円滑にしている。それはある種の態度や優しさでもある。
私はわかりやすい“良い”“悪い”に距離をとりたい」
 
その一方で、往復書簡を行った宮野真生子さんが、癌になり病院では “病人”としての自分としか見られないことに違和感を覚え、「“癌になった自分”だけが私のすべてじゃないのにな」と言っていたことを話していたという。

患者側ではそうだろう、と思う。
しかし、仕事として毎日接していると、目の前にいる人を見ているのか、病気のマニュアルを見ているのか、わからなくなってくる……そんな相手側の視点も私には理解できる。
 
仕事が老人ホームでのリハビリとマッサージなので、日々認知症の方と接していると、バグってくる。
もちろんユマニチュードの意図も大切さも、頭では理解している。
それなのに、歩き回ったら転倒の危険がある入居者が立ち上がったら、つい力で抑えこんでしまう自分がいる。

ユマニチュードは人を選ばず、誰にでも公平に行えるものなのかな?

ただ介護しているだけなのに暴言や罵倒されると、脳内でプツンとキレる音が聞こえるときがある。
もう優しくできるエネルギーが切れちゃう……。

認知症の方は大騒ぎした後、数分で忘れるが、職員は一度キレた根性を通常の仕事モードに戻すまでに時間がかかる。

こちらは防御しかできないし、防御に徹しているのに攻撃され続ける。
高齢者はリミッターが外れているから、自分に何かしてくる人は全部敵と見なす。殴る蹴る噛む叩く暴言、全部手加減ゼロ。

他人の家族の介護をして、暴言吐かれて罵倒されて暴力振るわれて唾かけられる。こっちが小さい内出血を発見したら事後報告書なのに、向こうから負わされる怪我はお咎めなし。ただただ理不尽。
それでも拘束できないから、こんな時対応してくれるAIロボットを開発してほしい。
 
将来自分もこうなりたくないし、迷惑かけたくない。こうなる前にいなくなる選択肢がほしいとすら思ってしまう。
私は安楽死制度の導入には賛成している。

……こんな現実を、当然映画にはできない。
いや、『廃用身』や『ロストケア』という作品がそうかもしれない。二作とも未鑑賞だけど、内容はだいたい理解している。

介護の現実をありありと描写しているにも関わらず、観たいと思わなかったのは、やはり心のどこかに“希望”を見たい、という願望があるのかも。

それなのに、本作で“理想”を見させられると、現実的には難しいことがわかっているが故にモヤモヤが残る。

理想を言えば、本作のラストのように、見る見られるの境界線がなくなる舞台みたいに、介護する・されるの概念がなく、“認知症”とか“障がい者”とか“介護者”関係なく“人”同士のコミュニケーションができたら最高だ。

自閉症の人物が出てくるけど、皆あたたかい目で見守っていたことにすら、フィクション性を感じた。私の姉が知的障がい者なので、家族だけどお互いに憎しみ合う存在だから、将来は誰にも迷惑をかけないで逝ってほしいとだけ願ってしまう事実がある。

だから、最初から障がい者が出てくる話は選ばないのが常だけど、つい濱口監督でカンヌの女優賞の演技観たさに選んでしまった。

失敗ではないし、作品としてはカタルシスもあり、絶賛意見にも頷ける。フィクションやファンタジーの世界としての作品だったら……だけど。

あまりにもリアリティを追求してしまうと、残酷な話になり、観たい気持ちもなくなるから、作品として成り立たない。私は観なくても現実で十分だし、お腹いっぱいという気持ちになる。

『銀河の一票』の中のセリフで、「綺麗事ではなく“綺麗な事”だよ」という言葉が好きで、政治もそうあってほしい。
なのに、介護現場の綺麗事はそのまま“綺麗事”や理想論にしか思えない。

書いているうちに考えがまとまるかと思ったけど、今回ばかりはただの問題提起になってしまった。
でももしかしたら、こうやって考えること自体が監督の意図なのかも。答えは出ないままであっても、介護と関係ない世界の人たちにも問題を投げかけるという、そんな裏テーマがあったりして。

一つの理想の形を作品で見せてくれたけど、今はそれには遠く及ばない。だからって、絶対に不可能ではないし、可能になるまでの過程なのかもしれない。

だって、介護従事者はみんな私みたいな思いをしている人は多いはずだし、ずっとこのまま……が続くなんて未来じゃ成長がない。
AIロボットなのか、安楽死制度なのか、はたまた境界線のない介護なのか?
それを知るために生きてみる。それしかできないのだ。
 
ふと思い出したことがある。会話が理解できない利用者さんに対しては、身体的行動で示す方法を日々やっていた。
例えば、話し始めてしまうと止まらなくなってしまう多弁症の方のリハビリの場合、どこでカットインして歩かせたらいいかわからないが、手を取って立ち上がらせたら話を止めて体は歩き始める。

作中での足マッサージも、見よう見まねでお互いに触れ合って、コミュニケーションを取っていた。足裏って適当に押しても気持ちいいし、一方的にする側・される側ではなく、お互いの足を出し合い、鏡のように揉み合う。
終わったら、きっと「ありがとう」を言い合うのだろう。

一方的に介護されるだけではなく、自分にもできることがある、そんな小さな自信が積み重なって、生きる希望にもなりえるのかな。




是枝監督の『箱の中の羊』は、正直あんまりおもしろさを感じなかった。これまでの監督の作品では、子役の自然な会話を引き出すのが上手かったのが、ヒューマノイド役だからか、感情が抑制されていたため監督の真骨頂が生かされていなかった。


これまでの作品と作風が違うことに関して、何かのインタビューで監督曰く、
「自分に飽きるから、このまま同じことをやっていても作り手として楽しめないと思った」
とのこと。私はその映画を見る前にこの言葉を先に知ったので、このときは監督に激しく同意して、早く映画を観てみたい!って、新境地にチャレンジした作品を楽しみにしていた。

だけど、観た後に思ったのは、監督自身のチャレンジではなく、みんなが求めているのは『いつもの監督の作品』なんだなって。

仕事は、他者から求められないと発生しないもの。自分以外の人の思惑で動いているから、 主導権を明け渡すべきなんだな、と。

もちろんアーティストとか、創りたいモノを創ることこそクリエイターなんだけど、偉大な監督になってしまうと、周りが口出しできないくらい雲の上の存在になってしまって、独りよがりになりかねないのかも。

考察動画を視聴してみると、モヤモヤを答え合わせすることはできたけど、作品だけを観て一人で完結できないのは、どうなんだろ?
頭をフル回転させて、作品に自分から寄り添っていかないと腑に落ちないのは、ちょっとストレスかな。

多くを語らずメタファーでわからせるのは、考察しがいがあるのだろうけど、観る人を選ぶし、置いてけぼり感は観る前よりストレスが強くなる。

私の読解力の問題もあるし、楽しめた人もたくさんいたから、カンヌでも選ばれたんだろうけど。

私は最近『飽きる』について考えてて、仕事を15年間やっていると飽き飽きしてきてるけど、相手(需要)あっての仕事だから、相手にとっては私が飽きていようと、いつもと変わらず行ってほしい訳で、その代わり給料がもらえる。

監督の作品について、私と同感の意見の人も多く、期待していたものと違っていたみたい。嫌なら観なければいいのだけど、観たいからこそ不満が出る。

だからって使い古した表現ばかりだと作者はうんざりしてしまうから、難しいところなんだけど、自己満ではなく周りと共存共栄するためには、求められている作風を追求すべきなのかな。

飽き飽きしても、それが真骨頂なら、『旨味』を発見できたり、満足の感想が多ければ自分以外の人を幸せにできたってこと。
今回、私のようにイマイチだと感じた層の酷評は、監督を傷つけるためではなく、期待が大きかったかがための、作品を観たいがための愛情表現の一つ。

人間、長く同じことに取り組んでいると飽きることもあるけど、飽きたことやモノは自分に合うモノ。
若者ならいろいろ可能性や変わったことに挑戦して自分探しをするけど、ある程度の年齢になると提供できるものは決まってくる(趣味ではなく、仕事でね)。

もちろん例外や遅咲きな場合もあるけど、自分を飽きさせず、隠れた旨味を発見しつつ、周りも幸せにできることが課題だな。

……ここからは作品について触れて、私も主人公たちと同じようなことをしたというエピソードについて。

死者をAIで甦らせるだなんてことではなく、霊能者の力を借りて亡くなった父の魂と会話する、という電話鑑定を利用した話で。

亡くなった日、父は母と一緒に公園の掃除の仕事をしていた。その後に二人でランチで行った蕎麦屋で、天ぷら蕎麦のエビを喉に詰まらせて死亡。
認知症はあったものの、体は元気だったのでまさにピンピンコロリ。

その二週間前に私ともランチに行っていたし、元気だった。母はさっきまで生きて一緒に仕事をしていた父が目の前で亡くなるという現実をなかなか受け入れられなかった。自分がランチに連れて行かなければ……、天ぷら蕎麦ではなくもっと柔らかい食べ物だったら、父はもっと長く生きれたかもしれない……という母の後悔は強かった。

死人に口無しなのは承知の上で、私は父と話したくなった。そこで死者の魂と話せる霊能者を通して電話で父の気持ちを知ることに。
本当に父なのかどうかは、確かめようがなかったので、いろんな霊能者を少しずつ試してみてピンとくる人を見つけた。

私が呼び出したのだから、私と話をしてくれる人が殆どだったのが、母の話ばかりする人が一人だけいたから。私は父とは30年前から離れて暮らしていたし、年に1、2回会う程度。それに対して母は50年間連れ添った仲。死の直前まで一緒にいて、娘の私よりも伝えたいことがあるはず。

「父の魂だ!」と確定できた霊能者さんを見つけた私は、母とも会話させてあげることに。
そして、私は父が自分の死に方に対して、母に恨みを持っていないかを訊きたかったので、予め霊能者さんに質問をしていた。もちろん母にはこの話は内緒で。

母との会話では、好物の大福が食べたいなどの話や、今までの感謝ばかりだった。そして私に電話を代わり、例の質問の答えを訊くことに。
「恨んでいない。寿命だったんだ」だなんて言葉を期待していた。それなら母に伝えて安心してもらおう、と。

それが、父は母への憤りを感じていると聞き、驚愕した。自分はお腹空いてなかったのにランチに連れて行かれて、そこで生涯を終えることになったのを激しく後悔している、と。

これを知り、私はショックを受け、母には何も伝えられなかった。
しばらくは落胆していたけど、冷静になって考えたら、なんでも母のせいにするのは生前の父の姿。それに、母ともっと一緒にいたかった、生きたかったという愛情の表れでもあると思い直した。

本当に恨んでいる訳ではなく、愛情や甘えがあるからこその本音だった。

父の魂と会話させてくれる霊能者さんとはそれきりになった。
それは、いくらその方が本物で、実際に父の魂とチャネリングできていたとしても、電話口から聞こえてくる声は女性で、そこから“父”を感じることはできないから。

父の言葉を代弁してくれるその声が女性のキレイな高い声だと、本当の父の言葉だとしても、ピンと来ない。
口下手でぶっきらぼうな、だけど優しくてあたたかくも思える、低くて大きな声。よく咳をする、たまにどもる、私を子供のころから「なーちゃん」と呼ぶ、あのやわらかい空気感は感じられない。

映画の後半は、死者は死者として存在する。でも生者とは別の世界で繋がってるはず。
そんな世界を見せてもらったような気がする。

その父とのエピソードを作品にして、自分でグリーフケアをしました。



【ネタバレを含みます】
いつもだったら選ばない映画のジャンルだけど、どうしても『0文字解答』の謎が知りたくて観ることに!
それに、誰も死なないミステリーというのが魅力的だった。

結論、おもしろかったし、納得のいく謎解きだった。ただ、三島の考察のように、製作者側の意図としてクイズプレイヤーの動揺した表情が撮りたいがための、感情を抉る問題(過去問)だと推測したから、というキレイなオチのままで良かった気がした。

本庄が実は笑っていた、ということは蛇足のように感じた。コレもまた本作でいうと、純粋にクイズの問題に立ち向かうプレイヤーの主人公と、視聴率が稼げるようにテレビの撮れ高を意識した番組づくりをしている製作者側、という対比に似ている。

読者や観客はどんでん返しを期待しているから、三島の完璧な考察だけじゃ物足りないと、作り手側は意外な事実を用意する。それがおもしろいと感じる観客もいるだろうけど、脳はいろんなことを処理しきれず、アレ?結局はなんだったの?と訳わからなくなる。
だから、シンプルでもいいのかな、と思う。

作り手側が若いと、自分はこれでは物足りないからアレもコレもと、盛り盛り沢山に詰め込むけど、見ている側はお腹いっぱいだったり、消化不良だったりする。だから消化吸収や咀嚼するための『余白』は必要なのかも。
本や漫画なら、自分のペースでめくるから、腑に落ちてから次へ進めるけど、映画はついていけないと置いてけぼりになる。

でも、役者の演技を楽しむのも映画のおもしろポイントだから、いつものイメージとは違う神木君やムロツヨシを観れたのは良かった。

それに、本庄がこの世界から消えると公言したことも、自殺やネガティブな未来ではなく、「誰かの正解を探す世界から消える」という意味だったので、三島が正解できなかったことが結果的に『正解』だったのが良かった。

答えのない世界では、選んだ世界を『正解』にすることが自分のチャレンジになる。

↑
……とココまで書いて、続きは次の日にと思って、YouTubeで他の方の感想を視聴していたら、意外な発見があった。

前述の通り、本庄が実は笑っていたという真相は蛇足だったのでは?について、こんな風に考察された方がいてハッとさせられた。

三島は本庄のトリックを見つけることができたけど、本心を当てることはできなかった。三島は元カノとのエピソードを思い出す問題から、自分が本番中に泣いてしまった過去があったから、本庄も同じように泣いていたのだと推察する。
しかし、実際本庄は思い出し笑いをしていた。

人は自分の経験則や想像できる範囲内でしか、他人の思考回路を想像できない、ということ。

そして、わからないなりにぶつかろうと、わからないところへ行きたいと二人ともステージを降りる。
それはまるで、どこかに正解があってそれさえ見つければ自分は世界に肯定されると信じているステージから。


蛇足だと感じた内容も、実はちゃんと意味があった。物語を勝手にこうしたら良かったのに、と批判することもできるが、作者は何かしら意図があってそのエピソードを入れたのだから、それが何なのかを考察するともっと楽しめるんだなと勉強になった。

自分の頭だけだと限界があるが、他人からの視点で改めて考察を知ることができる今の時代は、本当に豊かになったなぁと思う。

反面、自分で考えなくなるとも言われているけど、自分で考え抜いた後、別の感想や考えに触れられると「そんな見方もできるのか!」と意見交換ができたようで、まるで一緒に映画を観たような気になる。

だから、映画鑑賞後に他人のレビューを読んだり動画を視聴したりするのは楽しい。映画は観て終わりではなく、その後に見知らぬ誰かの感想により、勝手に共有できる感覚がたまらない。

先週から、いわゆる飛蚊症みたいな症状が出始めた。糸屑のようなものが視界の淵に常にいたり、急にピカッと光って見えたり……。


眼科で診てもらうと、網膜には異常がなかったので、老化現象によるもので付き合っていくしかない、と。

病気のように治療できるものではなく、ずっとこのままなのか……と途方に暮れた。

ただ生き続けているだけで、障害者になっていくみたいで辛い。


歳を重ねると、正常ではないけど異常でもないということが増えていく。老眼や更年期など。


もしかしたら、人間は老化しないままだといろいろ飽きてきちゃうから、体や脳の老化によっていつまでも同じことができないように、つくられてるのかな?
若くて肉体がピンピンしたままだと、有り難みがなくなるし、同じことをし続けてしまう。

飛蚊症からなのか目の疲れが前より強くなった気がする。
映画とか文章を書いたり、目を酷使する好きなことが楽しめなくなったら、人間は他のことをやり始めるのか、それとも短い時間でもその好きなことをやり続けるのかな。

大げさに言うと、命が最優先だから目が痛くなってまで好きなことをやり続けることには無理がある。かといって目を大切にし過ぎて何もせず、ただ生きているだけなのもつまらない。

毎日同じことが繰り返されているだけのようでいて、日に日に老いていくから、見えている世界は毎日変わる。飛蚊症になる前の私と、なってしまった今の私では、世界の見え方が全然違う。

つい先々週のクリアに見えた世界を、この先私が見ることはもう不可能になってしまった。

失明するよりはマシなのだから、大げさかもしれない。見えるのだから、それに感謝するのが妥当なのだろう。
なのに、まだ嘆き続けているのは、クリアに見えていた自分のほうが『本当の自分』みたいに思えるからかな。
飛蚊症の自分だって自分には変わらないのに、まだまだ受け入れられない。これが『更年期』ということ?

初老から老人への過渡期だから、まだ人間として力を発揮できる全盛期への未練みたいなのがある。衰えてきた体も含めて『自分』とは思いたくない。

だけど、こうして飛蚊症になってみると、若者とお年寄りでは同じ世界を同じように見えていないことがよくわかった。
認知症で幻覚が見える人にとって、その幻覚は本当にあるモノとして、目に映る。実際はないのに、その方の世界にはあることになる。

私は、まだ飛蚊症になったばかりだから、正常に見えてたときが『普通』だとわかるので、飛蚊症付きで見える今の世界は『異常』。
でもそのうち、飛蚊症歴が長くなってきたら、飛蚊症付き世界が私の基本になっていく。

嫌だけど、治らない限りは慣れていくしかない。こうやって正常ではないけど異常でもない、ということを受け入れていくことで、更年期が明けるのかな。

そうなってからやっと、ガタが来ているのに頑張って働いてくれている自分の体や、お年寄りにも優しい気持ちになれるのかもしれない。

……私はまだまだその領域には行けてないから、しばらく踠くとは思うけど。


【ただの取り留めのない日記です】

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こんな前置きをいちいちブログに記載しなくても、本来は自由に書けばいいのだ。とはいえ、どなたかが「おもしろいかも?」とうっかり読み始めてしまい、結局時間をムダした!…だなんてことにはさせたくないので……。


多分、時間が経てば風化してしまうような『取るに足らない』に値する感情を、なんとなく忘れたくなくて書いておこう、と思う。


私は老人ホームでリハビリ職をしている。今の職場に異動になってからは7年目。介護職の離職率は高いので、たくさんの人たちが入っては辞めての繰り返し。かくいう私も、去年辞めるつもりだったのが、後釜が入ってこないためまだ続けている。


介護職員の入れ替わりも激しいが、看護師さんも同様。そんな中で一人だけ4年間続いていた男性の看護師さんのR君がいた。彼は30代前半だけど小柄で童顔だからパッと見はもっと若く見える。社員になる前は派遣ナースから来ていて、看護師としてではなく介護職の仕事をしにスポット的にたまに入っていた。


ある日常勤の看護師が二人いっぺんに辞めてしまったため、看護師として派遣で来るようになり、そのうち正社員へ。

だから、介護の仕事もできるし、雑用のようなことも進んでやってくれていて助かっていた。


これまでの看護師さんはプライドもあり、介護職がやるような仕事はできなかったし、本職だけでいっぱいいっぱいな感じでピリピリしていた。なので必要なことを確認するだけでも話しかけづらくて、私はいつもビクビクだった。


そんな気が強い女性の看護師さんたちのイメージから一変。フットワークが軽くフレンドリーで明るい彼は、利用者さんのお年寄りからも人気者だった。R君は忙しいはずでも、いつも飄々としていて、こちらが確認したいことをわざわざ直接伝えに来てくれていた。しかも毎回笑顔で冗談を交ぜながら。


もちろん私に対してだけではなく、みんなにも同じように接している。彼とは仕事の話以外はほとんど話さなかったけど、「お疲れ様」と言い合うときは友達にするように手を振ってくれるので、自然と笑みが溢れた。


そんな4年間を振り返ってみると、改めて特別なことはなかったはずなのに……。彼が今月で辞めることを知ったら、充分『特別』だったと記憶が上書きされた。


先日、いつも何かしら伝えに来てくれるときのように「○○(私の名字)さ~ん!」と呼んで、わざわざ挨拶しに来てくれた。

「今日で最後なので……今までお世話になりました」

そう言われて、「……こ、こちらこそ」と返すので精一杯だった。お世話になりっぱなしだったのはこっちの方だったのに。


ただの出会いと別れの1ページだ。こんなことは今までだってたくさんあった。その中一つ。自分が歳を重ねたせいか、多分『永遠』だろうなと思うこの別れがツラく感じた。自分が若いときはこの先たくさんの出会いが待っているから、と大したことに感じなかったのに。


彼が辞める理由は、人伝によると、利用者さんのご家族から褥瘡ができたと訴えられていることが原因だそうだ。

それも噂によると、彼ではなく年配の女性の看護師が指定の薬を塗らなかったらしく、彼女はすでに先月辞めてしまった。


薬を塗ったのかどうかは、今となっては確かめようもないこと。彼は長く働いていたから責任者的な立場でもあり、会社からいろいろ言われていたようだった。

詳しいことも本当の話もわからないまま、ただ彼が辞めるに至ってしまったことだけが事実になった。


その年配看護師だって、人間だからヒューマンエラーはある。もちろん医療従事者の責任は大きいけど、90人を越えるお年寄りのケアを毎日行っていて、『出来て当たり前』だとみなされてしまう。しかし、『失敗したら訴えられる』そんなことが重くのしかかってきたら、そりゃあ続けられる人はなかなかいないだろう、と同情してしまう。


今月からR君の後釜で入った看護師さんも、来月いっぱいで辞めるらしい。

彼は「回転率いいので!」と、明るく笑っていたけど、そんな中4年間もやってくれていた彼の強さを感じた。


別れ際、最後に「楽しかったです!」と言われて、思わず私もR君と働けて楽しかったという意味で「こちらこそ」と返してしまった。

後から考えたら、彼が言った意味は『ここで働けたことが』だったのかもしれない。

それなのに『こちらこそ』で返すのは、とんだ思い上がりだ。恥ずかしい。


私は白髪も増え、眉間のシワも深くなりつつある上、ほうれい線も下がってきた49歳だ。そんな中年から初老になりかけている自分が、30代前半の爽やかな好青年に眩しい笑顔で「バイバイ」と手を振ってもらうようなやり取りだけで、楽しく感じていた。


生きているのが精一杯のお年寄りや、認知症で訳がわからなくなっている方と、そのお世話でストレスがたまっている介護職員やピリピリした看護師たち。そんな過酷な仕事の中で、R君の姿を見るだけでも勝手に癒されて、勝手に『愛でていた』。


きっと別れを告げる側より、告げられる側のほうが寂しく感じるものだ。このまま彼のいない同じ場所に置いていかれるだけだから。


それなら……もう会わないなら勝手にこう解釈しても『痛い人』と思われないはず。

最後の「楽しかったです!」は、『私とのやり取りが』ということに。


だってこの仕事が楽しかったというのなら、辞めていないはず。最後にわざわざ会いに来て、私に直接伝えるってことは『一緒に働けて』という意味だと受け取ろう。


……やっぱり痛い人かなぁ。


こんな取るに足らない話を書き残したのは、歳を重ねて純度が薄まってしまった感覚にも、まだまだ『純』な気持ちが残っていると覚えておきたくなったから。


例えば恋愛や不倫などの相思相愛やドロドロした濃い目の関係性だけではなく、こんなただの仕事仲間にも淡くささやかな関係性に気持ちが持って行かれることが、今更ながらあるとは思ってもいなかった。


結婚してしまえば、これ以上の男女感のアレコレはないはずだからと、どこかで寂しい気持ちになりつつも諦めていた。いや、アレコレあってはいけないのだから、これでいいのだと言い聞かせて。

でも恋愛以外でも心がこんな風に動くこともある。

とっくに諦めてたけど、まだまだ歳を取りたくないなぁ。


自分が若い頃は、ずーっと年上の男性が好きで、学生のときはよくオジサン先生を好きになっていた。

こうして歳を重ねてみると、今は若い頭キレッキレッの男性に頼りたい、と普通のオバサンになってしまった。


このままおとなしく歳を重ねるより、若い方たちと対等に意見交換できたり、時には頼ってもらえたり、「楽しかった」と思ってもらえる関係性になりたいなぁ。





【ネタバレを含む感想文です】

時計の長針と短針との密会話に、心を掴まれた。12時ピッタリから始まって、次に出会うのが1時5分、2時10分、3時16分……という発想が素敵。そして長く出会えない11時台。

この物語は、まさに「正解」を求めて立ち止まるのではなく、信じた道を「正解」にするために走り続けるルビッチの姿を描いた作品だから、『人生の11時台』にいる人たちには背中を押されるカタルシスがある。

ただ、観る前からレビューを追っていたので、前半は退屈だけど後半からおもしろいという触れ込みが気になっていた。それが自分にとってはそんなことはなく、前半も楽しめたし、後半はまんまと涙した。

作者の西野亮廣さん曰く、「待ったことで辿り着く境地。弓のように引いて辿り着ける場所がある」というように、ココの感動に持っていくための前半なんだ!とよくわかった。

とか言いつつも、ついショート動画のギュギュッと凝縮された内容を視聴しがちな自分ではある。多分、そんな人たちが多過ぎる世の中で、警鐘を鳴らす意味合いもあったのだろう。

いろんな伏線を回収し切れていないとか言っている方がいるが、それは自分で想像すればいいし、いろんな解釈がある。すべてを作者に任せきりにしないで、自分から映画を楽しめるようになったほうが得しかない。

大爆死とかいって、ケチョンケチョンにしたレビューや動画で注目を浴びようとする人たちは、最初から貶す目的で映画を観に行っているように思える。

斜めから観たらいくらでもツッコミどころはあるけど、アニメやファンタジー、そもそもフィクションの世界は『ご都合主義』が大前提ではないか?

そこを観客に感じさせないような作り方にすべきではあるけど、どの作品にも言えることなんだから、それが嫌ならノンフィクションやドキュメンタリーしか観れないのでは?

なんだか作品本体の感想より先に、貶しているレビューや興業収入ばかり気になってしまい、純粋な所感が書けなくなることはもったいないこと。余計な情報を切り離して、作品だけを観たらとても素晴らしいし、エロ・グロ・暴力のない安心な映画はもっと評価されていいとすら思える。

鬼滅の刃やチェンソーマンは闘う描写が多そうだから、評価は高くても観る気にはなれなかった。

西野亮廣さんには、頑張っても結果に結びつかなかったり、逆に酷評されたり、散々なのによくこの作品を世に出してくださったな!と尊敬と感謝でいっぱいだ。

映画館を出た後は、「いい映画を観たな」という多幸感に満ちた。人を幸せな気持ちにしたいというモチベーションで作った作品を、貶す権利は誰もないと思う。

人を死なせたり、一旦不幸にさせたり、そんな下げて上げてをわかりやすくすれば人の気を引けるとか、人気俳優の演技頼みで作品の良し悪しが決まることには、辟易としていた。

とはいえ観る前は、観て損はしないだろうか?観る必要はあるだろうか?だなんて考えてしまっていた。それでも観ようと思ったのは、プペル1がテレビでやっていたので6年前に観たものの、もう一度観たときに「良かった」と思えたから。

当時、父が亡くなって49日経つ前だったこともあり、ラストでプペルがルビッチのお父さんの魂と重なって、天へと召された描写で号泣してしまった。偶然にうちの父の形見も、いつも身に付けていた(母があげた)パワーストーンのブレスレットだったから。

今回はさすがに何も共感することはないだろうと思っていたのに、ナギとガスの関係性に自分を重ねてしまった。

ナギは植物の精霊で人間のガスとは結ばれないという描写があった。私のほうは恋愛という関係性ではないものの、二人でやっている職場で上司は医療系で専門的にやっていた人で、私は治療系ではなくリラクゼーションの世界にいた人間。

本来交わらない二人が、今はなぜか6年もの間一緒にいて、仕事として老人ホームでのリハビリとマッサージを行っている。私はやはり自分には向いていないと思って、去年辞めることに。だけど、上司は派遣で人を入れることもせず、私が辞めても一人でやろうとしていた。

私はナギと同じように、私がいなくなれば忘れてしまうだろう、もっと相応しい人がいるはず、と思っていた。それなのに上司はまるで私がいつでも心変わりして戻ってきてもいいかのように、一人でやるつもりでいた。結局、私は今でも続けていて二人で働いている。

もちろん恋愛関係ではないから、慣れた人がいいだけの話だろう。だけど、人間と精霊という比喩みたいに、時には畑違い同士でも引き合うこともあるのかもしれない。

そんな風に、ファンタジーであっても、共感することもできるのだから、やはり『作品』として形にしてくれたことで、自分の中にある何かが動き出す可能性だってあるのだ。

何しろ、これから西野亮廣さんには、正解がわからなくても直感に従って行動し、後からそれを「大正解」にしていく姿勢を見せるべく大展開を期待したい。


【ネタバレを含みます】
これは絶対いい映画!泣ける!と確信して観てみた分、期待値が高過ぎたせいかあっさりした観賞後感だった。
もちろんすばらしい題材で、何回かウルウルしたけど、やはりアメリカとの合作だからか、感動場面を淡々と描き過ぎていて、テンポが早くて、気持ちがついていけなかったのもある。

映画をたくさん観慣れてしまうと、内容だけではなく表現力にも注視するようになるのは、良くも悪くも目が肥えた証かも?

もしこれが完全に日本の作品であれば、もう少しゆっくりとした“間”を取って、観客の気持ちに寄り添ったリズム感で誰も置いていかない優しい作品になり得ただろう。その分、少し上映時間が長くなったとしても満足感は高いはず。

アメリカ人から観た日本というのもあるし、外国で上映しても浮かない作り上がりになっているのかな。

だからか、私は洋画をあまり好んで観ることはない。テンポが早くて、ついて来れる人だけついて来て!という力強さがある。これは私が年を取ったせいもあって、気持ちがポンポン切り替わることができないからだろう。

そう考えると、老若男女そして全世界に受け入れられる作品は難しい。内容は良くてもテンポが……もしくはその逆も。

内容については、お金を支払う依頼主の意向より、主人公が直に接する騙される当人の意向に寄り添っていく優しさに包まれる素敵なお話だった。
特に、主人公がやりたかったはずの役者の仕事を蹴ってまで、嘘の関係性に重きを置くところは利害を越えた美しい思いに感動した。

現実だと、生活するためや今までの努力や目標にしがみついて、仕事を優先させると思う。そこを物語の世界では、損得や道理では動かない真実の心を描くところに感動ありき!を確かめられる。

安定した生活やお金、成功や名声が私たちを幸せにする、と思い込まされて、それらを追い求め執着する。本来はコントロールできないものなのに、信じて頑張って疲れてしまう負の世界。
それらはカモフラージュであり、頭の中に恐れをつくり出す。

利と理では選ばない、説明できないポジティブな不条理さに幸せがあるものなのだ。

私も『レンタル・ファミリー』ではないが、職場の老人ホームで、ご家族の意向によりお年寄りのリハビリとマッサージを行っている。
運動してほしいご家族と、運動嫌いなお年寄り。もちろん私の仕事は、お金を払っているご家族の希望に添って、なんとか運動をやってもらう他ない。

しかし、どうしても難しいときは、マッサージのみにしてお話を傾聴するだけのときも。これも“精神賦活”という立派な心のリハビリ。動く意欲を取り戻すために必要不可欠だから、決して依頼主にはわからない心のやり取りが双方にはある。

ご家族が側にいられないなら、スタッフの私たちが『レンタル・ファミリー』みたいなものだから。





画像を主役の若い2人にしないで、家族3人のほうにしたのは、永作博美さんの演技にやられてしまったから。
当然私は、永作さんが演じていた立場を経験したことがない。それなのに、ちゃんと感情移入できたのは、ひとえに役者の演技の素晴らしさ故に、でしょう。

ネタバレしつつ、自分の今の立場からの超個人的な感想を書きたい。
素人作家の端くれとして私が作品を生み出す意図は、不幸や嫌な出来事から自然に陥る負の感情を、『これは決して悪いことではない』と、前を向かせる気持ちに変化させたい、というモノでもある。

自分が自分のセラピストになり、自分を癒す。自分は世界に一人だから、人間の悲しみや苦しみはそれぞれだけど、『近しい人の突然の死』という喪失感は、生きていれば誰でも経験する。だから、それを少しでも癒すことができる作品は、ただ泣けるという理由だけではなく心に響くのだろう。

ここからは個人的な話になるが、私もつい最近、遺族と故人をどちらもケアをする、繋げる立場なのかも……と感じ始めたところ。
いや、かなり語弊がある表現なので、正確に言うと『故人』ではなく、『故人(死)』に近づいている、現在は生きているお年寄りに接している、という意味。

私の仕事は老人ホームでのマッサージとリハビリ。昨年を振り返ると、これまで歩行訓練を行ったり、マッサージをしながら、お話に花を咲かせたりしていたお年寄り達が沢山亡くなっていった。

昨年末の大掃除で、昔の書類が出てきたので懐かしく見てみると、ふと虚しくなった。
私は今の職場に来て6年経つ。今でもリハビリをやっていらっしゃる利用者さんは2人しかおらず、その他の方々は退去されて別の施設に移られる方もいたが、亡くなられた方々も沢山。

老人ホームだからといって、ホスピスとは違い、亡くなるまでここで過ごす方ばかりではない。稀に、ご家族のいるお家に帰られる方もいるが、もっといい施設や特養に移られる方も多い。

だから、必ずしも亡くなってお別れをする訳ではなく、ご家族の事情などで物理的に突然お別れすることもよくある。
利用者さんは入居と退去を繰り返し、入れ替わっていく。
知り合って、やっとお互いに慣れて親しくなったと思ったら、いつかいきなりいなくなり、また新しい方を迎え入れる。

こんな風に年を重ねたい、と素敵だなぁと思える方も、その逆に自分にとって苦手でやりにくさを感じる方も等しく、いつか必ずいなくなる。
諸行無常だから当たり前のこと。ただ、そんな毎日に一喜一憂してきた日々だった。

ご家族がリハビリを見学されることもあるが、私は理学療法士ではないので、ご家族にいろいろ質問されたら詳しく専門的に説明ができないからと、プレッシャーからいつも苦手に感じていた。そんな自分の保身から逃げ腰になっていたのだけど、ご家族は私ではなく、『親』の勇姿を見たいと思っていることに気づいた。

利用者さんは私の指導の元では、甘えがあったり、弱気になったりして渋々という様子。それが、ご家族の応援がある中で行うリハビリは全然違うのだ。

普段私には見せない姿で、やる気を振り絞って頑張るお年寄りに、目を見張ることも。
体が不自由で普段は寝てばかりになってしまう方の力強く歩く姿は、その方ご自身はもちろんのこと、それを見守るご家族も両者とも誇らしげに感じる。

それは出来ないことが増えて、認知症の症状がある今の姿ではなく、元気だった頃の頼れる親の姿に重なるからなのではないか、と。

今は『親』と『子ども』でも、遅かれ早かれ『故人』と『遺族』になっていく。
その少し前に『子ども』の前で『親』として、力を発揮している姿を見せることができて、晩年も素敵だった印象や実感を持てる、そんなお手伝いを今後もやっていきたい。 


この映画の話で、病院での闘病生活の中、短い生涯を終えた女の子の話があった。
母親は、どこにも連れて行くことも、好きなことをやらせることもできず、この子の人生は楽しいことがなかった、と嘆いていた。

しかし、娘は母親に褒められることが喜びで、辛い手術や治療を乗り越えた後に金メダルを貰ったことが嬉しかった。それに毎日三つ編みを結って可愛くしてくれる、そんな些細な日常を楽しんでいたのだ。

そのお話から私も、リハビリを頑張った利用者さんにはご家族の分までたっぷりと褒めて、身だしなみもキチンと整えてさしあげたい。施設での食べて寝るだけの生活に、少しでも笑顔を増やしていけるように。