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【ネタバレを含みます】
これは絶対いい映画!泣ける!と確信して観てみた分、期待値が高過ぎたせいかあっさりした観賞後感だった。
もちろんすばらしい題材で、何回かウルウルしたけど、やはりアメリカとの合作だからか、感動場面を淡々と描き過ぎていて、テンポが早くて、気持ちがついていけなかったのもある。
映画をたくさん観慣れてしまうと、内容だけではなく表現力にも注視するようになるのは、良くも悪くも目が肥えた証かも?
もしこれが完全に日本の作品であれば、もう少しゆっくりとした“間”を取って、観客の気持ちに寄り添ったリズム感で誰も置いていかない優しい作品になり得ただろう。その分、少し上映時間が長くなったとしても満足感は高いはず。
アメリカ人から観た日本というのもあるし、外国で上映しても浮かない作り上がりになっているのかな。
だからか、私は洋画をあまり好んで観ることはない。テンポが早くて、ついて来れる人だけついて来て!という力強さがある。これは私が年を取ったせいもあって、気持ちがポンポン切り替わることができないからだろう。
そう考えると、老若男女そして全世界に受け入れられる作品は難しい。内容は良くてもテンポが……もしくはその逆も。
内容については、お金を支払う依頼主の意向より、主人公が直に接する騙される当人の意向に寄り添っていく優しさに包まれる素敵なお話だった。
特に、主人公がやりたかったはずの役者の仕事を蹴ってまで、嘘の関係性に重きを置くところは利害を越えた美しい思いに感動した。
現実だと、生活するためや今までの努力や目標にしがみついて、仕事を優先させると思う。そこを物語の世界では、損得や道理では動かない真実の心を描くところに感動ありき!を確かめられる。
安定した生活やお金、成功や名声が私たちを幸せにする、と思い込まされて、それらを追い求め執着する。本来はコントロールできないものなのに、信じて頑張って疲れてしまう負の世界。
それらはカモフラージュであり、頭の中に恐れをつくり出す。
利と理では選ばない、説明できないポジティブな不条理さに幸せがあるものなのだ。
私も『レンタル・ファミリー』ではないが、職場の老人ホームで、ご家族の意向によりお年寄りのリハビリとマッサージを行っている。
運動してほしいご家族と、運動嫌いなお年寄り。もちろん私の仕事は、お金を払っているご家族の希望に添って、なんとか運動をやってもらう他ない。
しかし、どうしても難しいときは、マッサージのみにしてお話を傾聴するだけのときも。これも“精神賦活”という立派な心のリハビリ。動く意欲を取り戻すために必要不可欠だから、決して依頼主にはわからない心のやり取りが双方にはある。
ご家族が側にいられないなら、スタッフの私たちが『レンタル・ファミリー』みたいなものだから。

画像を主役の若い2人にしないで、家族3人のほうにしたのは、永作博美さんの演技にやられてしまったから。
当然私は、永作さんが演じていた立場を経験したことがない。それなのに、ちゃんと感情移入できたのは、ひとえに役者の演技の素晴らしさ故に、でしょう。
ネタバレしつつ、自分の今の立場からの超個人的な感想を書きたい。
素人作家の端くれとして私が作品を生み出す意図は、不幸や嫌な出来事から自然に陥る負の感情を、『これは決して悪いことではない』と、前を向かせる気持ちに変化させたい、というモノでもある。
自分が自分のセラピストになり、自分を癒す。自分は世界に一人だから、人間の悲しみや苦しみはそれぞれだけど、『近しい人の突然の死』という喪失感は、生きていれば誰でも経験する。だから、それを少しでも癒すことができる作品は、ただ泣けるという理由だけではなく心に響くのだろう。
ここからは個人的な話になるが、私もつい最近、遺族と故人をどちらもケアをする、繋げる立場なのかも……と感じ始めたところ。
いや、かなり語弊がある表現なので、正確に言うと『故人』ではなく、『故人(死)』に近づいている、現在は生きているお年寄りに接している、という意味。
私の仕事は老人ホームでのマッサージとリハビリ。昨年を振り返ると、これまで歩行訓練を行ったり、マッサージをしながら、お話に花を咲かせたりしていたお年寄り達が沢山亡くなっていった。
昨年末の大掃除で、昔の書類が出てきたので懐かしく見てみると、ふと虚しくなった。
私は今の職場に来て6年経つ。今でもリハビリをやっていらっしゃる利用者さんは2人しかおらず、その他の方々は退去されて別の施設に移られる方もいたが、亡くなられた方々も沢山。
老人ホームだからといって、ホスピスとは違い、亡くなるまでここで過ごす方ばかりではない。稀に、ご家族のいるお家に帰られる方もいるが、もっといい施設や特養に移られる方も多い。
だから、必ずしも亡くなってお別れをする訳ではなく、ご家族の事情などで物理的に突然お別れすることもよくある。
利用者さんは入居と退去を繰り返し、入れ替わっていく。
知り合って、やっとお互いに慣れて親しくなったと思ったら、いつかいきなりいなくなり、また新しい方を迎え入れる。
こんな風に年を重ねたい、と素敵だなぁと思える方も、その逆に自分にとって苦手でやりにくさを感じる方も等しく、いつか必ずいなくなる。
諸行無常だから当たり前のこと。ただ、そんな毎日に一喜一憂してきた日々だった。
ご家族がリハビリを見学されることもあるが、私は理学療法士ではないので、ご家族にいろいろ質問されたら詳しく専門的に説明ができないからと、プレッシャーからいつも苦手に感じていた。そんな自分の保身から逃げ腰になっていたのだけど、ご家族は私ではなく、『親』の勇姿を見たいと思っていることに気づいた。
利用者さんは私の指導の元では、甘えがあったり、弱気になったりして渋々という様子。それが、ご家族の応援がある中で行うリハビリは全然違うのだ。
普段私には見せない姿で、やる気を振り絞って頑張るお年寄りに、目を見張ることも。
体が不自由で普段は寝てばかりになってしまう方の力強く歩く姿は、その方ご自身はもちろんのこと、それを見守るご家族も両者とも誇らしげに感じる。
それは出来ないことが増えて、認知症の症状がある今の姿ではなく、元気だった頃の頼れる親の姿に重なるからなのではないか、と。
今は『親』と『子ども』でも、遅かれ早かれ『故人』と『遺族』になっていく。
その少し前に『子ども』の前で『親』として、力を発揮している姿を見せることができて、晩年も素敵だった印象や実感を持てる、そんなお手伝いを今後もやっていきたい。
この映画の話で、病院での闘病生活の中、短い生涯を終えた女の子の話があった。
母親は、どこにも連れて行くことも、好きなことをやらせることもできず、この子の人生は楽しいことがなかった、と嘆いていた。
しかし、娘は母親に褒められることが喜びで、辛い手術や治療を乗り越えた後に金メダルを貰ったことが嬉しかった。それに毎日三つ編みを結って可愛くしてくれる、そんな些細な日常を楽しんでいたのだ。
そのお話から私も、リハビリを頑張った利用者さんにはご家族の分までたっぷりと褒めて、身だしなみもキチンと整えてさしあげたい。施設での食べて寝るだけの生活に、少しでも笑顔を増やしていけるように。

画像は清水菜々香役の方がかわいくて、そしてとても印象に残ったので、コレをチョイス♡
この作品は、レビューを読む限りでは賛否両論で、あまり良くなかったというコメントが目立っていたため、どうしようかな?と思ったけど……
結果、観て良かった!おもしろかった!と心から感じた。
つくづく映画などの作品は、観る側のバックグラウンドが如実に反映されるものだということと、勝手に抱く「こういった内容かな?」という期待値をどれだけ越えられるかが、満足度を左右するのだと実感。
本作は、個人的にはブッ刺さり、よく作ってくださった!と関係者にお礼を言いたいくらい。
【ネタバレを含む感想】になります。
私も過去、ブラックな会社での仕事で精神的に追い詰められて、無断欠勤をしてしまったことがあった。
退職する旨を伝えると、一年以内に辞めたら研修費を払うことになる、という契約内容があったため、払わされることに。
私一人なら、会社と縁を切りたい一心で早くお金を払って、終わらせたいと思っていた。しかし、胃潰瘍になってしまった後輩も、同じように請求されたことを知り、何とかしたいという気持ちになった。
自分より年下でお金のない後輩が、体調が悪い中でお金を工面することに、やりきれない思いだった。
「本当に払うべきお金なのだろうか?」
そんな疑問で、労働局や無料弁護士に相談してみたら、労働環境が悪いことも明確になり、その契約書もおかしいと言われた。
私は、まさに作中の主人公と同じように『戦う』つもりだった。
しかし、会社に上記の指摘をすると、私が無断欠勤をした日は指名のお客様がいたことや、職場に迷惑をかけたことで民事裁判に持っていけば私に勝ち目はない、と。
研修費よりもっと高い賠償金を請求されることになるし、払えなければ親にも請求がいく、と言われてしまった。
私は結局、親まで巻き込みたくなくて、後輩には悪いと思いつつも、研修費を払うことで丸く収めることに。
私が払ってしまえば、後輩やその下のこれから働くかもしれない若い人たちにも、同じ思いをさせてしまうかもしれないのに……。
一方、映画の主人公は、アイドルに憧れている女の子達のダンスを見ながら、彼女達の将来を守りたい、と戦った。
憲法の基本的人権の尊重として、「個人の尊重」と「生命、自由及び幸福追求権」が規定されていることを主張した、という展開には痺れた。
彼氏とは別れて、アイドルとして復活もできず、「今は無職」という主人公の清々しい顔と堂々とした姿がかっこよくて、ラストの日の出のように眩しかった。
私ができなかったこと、やりたかったことを成し遂げてくれたようで、勝手にカタルシスを感じ、スッキリとした。
この映画は、事実を元にしたフィクションとはいえ、このような作品を一般に公開することには意味がある。
「アイドルだって血の通った人間だから、恋愛くらいするよ」
と思って、寛大になる世の中に一役買っているはず。
それに、この作品を観たら誰かと語り合いたくなる!
最後をハッキリ描かないことを批判していたコメントも散見した。しかし、「正しさ」よりも「問い」を残すという手法で、観た人それぞれに考えさせる、そんな『宿題』のような余韻が残った。
今年を振り返ってみて。
14年間勤めていた会社を退職しようとしていたのに、「続ける」という決断をしたことは大きかったかも。
今の職場に異動になって6年で、理学療法士の若い男性と2人でやっていたこともあり、週2のパートとはいえ迷惑をかけないよう、2ヶ月以上前に退職の意向を伝えておいた。
それなら余裕で新しい人に引き継ぎもできるだろう、と。
それが、求人を出しても誰も入らず……。
一人でやらせるのは、さすがに大変になると察して残ることにしてしまった。
彼はただの仕事仲間としか思っていなかったし、辞める気になったらいつでも切れる縁、だと思っていた。
それなのに、2人きりでやっていた仕事だったので、頼ったり頼られたり、助けたり助けられたり……仕事上必要なこととしてやっていた行為を通して、お互いに唯一無二の存在になってしまった。
彼とは恋愛感情ではないけど、仕事を通しての信頼関係みたいなものは確かだから。
時間の共有を重ねることで繋がり、縁をつくってしまったのだろう。まさになんとなくでも続けた先に、道が出てくるというもの。
若い頃は次から次へと旅をし、寅さんのようにいろんな場所で想い人を見つけては別れを繰り返していた私が、辞めようとしていた職場に留まることにしたという自分の決断にも驚いている。
職場も今まで結構転々としていたし、14年いる会社に出会うとか、「動かない」という選択をする自分になるなんて、若い自分からは考えられない。
年を重ねると、こうなるものなのだろうか?
若い異性に頼られ、必要とされる満更でもない気持ちに、自分がなってしまったんだな、と気づいた。どうせいつかは別れる日は来るんだから、自分から別れなくてもいいのかな、という思い。
それは『仕事』という大義名分として、役割を与えられているうちに関係性が育つ……みたいな。
これは、私が利用している『感想サービス』でも同じように感じた。
普通に素人作家が作品を無料で公開したところで、無料でも読んでもらえないのが現実。
しかし、ビジネスとしてお金をお支払いしていれば、全文読んでいただけて、ご感想に加えて質疑応答にも応じてくださるプロのサービスだ。
だけど、私にはちゃんと心が通っているように思えた。
長編旅シリーズの8作目を書き上げ、完結させたので、これで執筆活動は最後になることを感想屋さんにお伝えした。
すると、作品を読了後、喪失感や寂しさで涙が出そうだったというお言葉を、ある方からいただいた。
私のエッセイロスのような感覚を味わわせてしまった、と私も複雑な気持ちになってしまった。
もちろん、本物の読者ではなく、利害関係があるから営業の一環とも受け取れる。しかし、そう仰った方は感想を書くに及ばない内容に関しては何章も飛ばして一言も言及しないタイプなのだ。
だから、きっと無駄なことや本当に思っていないことを書くことはない。仕事だからといって、忖度して褒めちぎる感想文は書かない、そんなスタイルだからこそ信頼を置いていた。
私は今、新作の執筆に取り組んでいる。感想屋さんに読んでもらうために書いているのだ。
仕事であっても、心が通うことはある。
むしろ仕事という大義名分で、私たちは愛の交流をしているように思える。
職場の理学療法士の男性は、30代で2人の子持ちで、陽キャで論理的思考で頭が良く体育会系という、自分とは接点も何もなく一番遠い存在。
そんな人と助け合ったり、頼られたり必要とされる心地よさがある。
『仕事』って、割りきってとか、お金のために嫌々、やむを得ず……みたいな感覚だった。
でもこの大義名分で、ある役割をしているうちに意図しない感情や新しい関係性が芽生えるものなのだ。
そんなことに改めて気づいた49歳でした。
【ネタバレを含め、尚且つ暴力についての話が入ります。苦手な方はご遠慮いただくことをお勧めします】
『TOKYOタクシー』は、ほっこり映画かと思いきや、戦争に巻き込まれた時代の描写や、幸せとは言い切れない夫婦関係が生々しく語られていった。
作中のキムタク扮する運転手同様、観ているこちらもつい眉間に力が入るほど。
主人公の息子も亡くなっていて、身寄りもいないことで、キムタクがこのご婦人に優しく接していたことが、唯一救われたひと時だった。
ただ、この映画を観る前に、ある話を聞いていなければ、フィクションのエンタメ作品として楽しめたかもしれない。
作中で主人公の夫が家族に暴力を振るう描写と、主人公が自分だけなら我慢できたけど、息子にまで痛い目に遭わせていた夫を許せず、復讐をした内容には強く共感を覚えた。
映画を観る前に、母から今朝、姉に殴られた肋骨が痛いという話を聞かされたからだ。
姉は知的障害があり、52歳だけど働かず、コミュニケーションを取るのは母だけ。母がいないと生きていけないくせに、そんな大切な存在の母に暴力を振るった姉を私は許せなかった。
しかも、自分が体調が悪いのと更年期の症状でイラ立ち、母は悪くないのに八つ当たりで力いっぱい母に拳をぶつけたそうだ。
姉は体が大きく、力が有り余っているので、相当痛く、肋骨にヒビが入ったかもと母は話す。
これまでも暴力はあったようだが、父がいたので抑えられていたようだった。父が亡くなってからは姉の歯止めが効かなくなっていった。
私はみるみる頭に血が上っていったのがわかった。
姉とはもう30年も会っていない。そんな姉とはもはや姉妹でもなんでもない。
母がいないと生きていけないくせに、そんな酷いことをする姉を私は生かしておきたくなかった。
いっそ○んでしまえばいい!!!
……そんな精神状態のまま、この作品を鑑賞すると、とても他人ごと(作り物)とは思えない気持ちになった。
主人公や息子が受けた暴力の報復として夫の下半身を火傷させた主人公が、裁判所で反省しなかった気持ちには共感しかなかった。
直接手を下さなくても、私も姉に対して○んで欲しい!!!と強く恨んだ。
もし映画のように、自分から報復したら刑務所に入ることになる。しかも主人公が助けたかった息子とも会うことができず、結果的に息子を失うという末路を観させられて、私は冷静さを取り戻した。
それでは、精神異常の姉を施設や病院に閉じ込めたほうが、母が安全なのではないか?
母にそう話すと、本人が行きたがらないし、そこまでではないと言う。
姉の若い頃から、母は暴力を受けてきたので、『慣れ』から麻痺してしまっている。
私には、何もできない。
今、姉に会えば狂気で何をするかわからない。
亡き父に、母を守ってもらうことを願うだけなのだろうか……
そんな風に途方に暮れて帰宅し、何となくYouTubeの動画を視聴していた。
ふと、ひろゆきの動画からの言葉を、思わず書き留めていた。
***
日本は、アメリカに原爆2発を落とされ、原爆以外でもアメリカ人にめちゃくちゃいっぱい日本人を殺されているけど、その後日本とアメリカは仲良くやっている。
それは僕らの世代は、生まれたときにアメリカに怒りを持っていないから。
僕らの上の世代がアメリカに対する怒りを子どもたちに伝えなかった。
僕らの上の世代やそのもう一つ上の世代は友達や親戚や親をアメリカ人に殺されているから、
「あいつらマジムカつく!絶対許さねえ」
って思ったと思う、当時。
でもそれを自分たちの心の中で止めて、その怒りを次の世代に伝えないという選択をした世代がいた。
そのお陰でうちの両親はアメリカに対しての怒りは持っていない。
戦争は良くないよねって言ってもアメリカを潰そうとか、アメリカに痛い目を見せてやれって言わない。
その恨みのスパイラルを作らずに、あくまで「戦争が良くない、だから誰とも戦わない日本にしたいよね」って形で、次の世代に伝えている人たちだった。
イスラエルやユダヤ系の人たちは今でもドイツに対して怒っている人もいる。
しかし日本の場合は、怒りとか憎しみとかを心の内に無くした世代がいた、というのが他の国との違い。
直接被害を受けた人たちが怒りを持つのは分かるけど、国や民族に対するヘイトを持たずに、個人に対するヘイトにして次の世代に引き継がない。
***
映画の中でも戦争の話が出てきたので、何だか遠い話には思えなかった。
その上、戦争を暴力に置き換えたら、暴力を暴力で返したら自分の拳も痛いし、スッキリした!…とはならない。
母はやり返さず、逃げずに丸腰で受け身のまま、姉にスッキリするまで殴らせた。
良くも悪くも姉とコミュニケーションを取れるのは自分だけだと、よくわかっている。だからガス抜きをさせるのが一番いい方法だと思っているのだ。
73歳の母が、自分の体を差し出し暴力を自分だけで止めようとしている。
そうしないと姉が外で他人を傷付る可能性もあるから。
だから、話を聞いたただけの私が憎しみや怒りをこれ以上広げてはいけない。
私にできることは、ソレだけだ。

いつもなら感動やほっこり映画を選ぶ私が、なぜか『爆弾』に心惹かれた。
ここのところ、(私にとって)観ても観なくても変わらないような映画が続いてしまい、決して駄作ではないものの、こうやっていざ感想を書こうとしても手が進まず、無理に搾り出すといった感じ。
激しい映画を観たいという心理は、心が元気になった証拠なのかも。
ネガティブに受け取ると、“感じ取る”系の優しい映画に、心が動かないほど鈍感になってしまったという見方も。
いずれにしても刺激を欲していた。
それが“癒し”に繋がっていくような期待もあった。
派手なアクションや無差別爆弾テロのような残酷描写は目を背けたいものの、この映画では希望を感じさせるセリフがあって救われた。
類家の「この仕事が片づいたらポークステーキ丼を食う。死ぬほど眠る。それで充分やっていける」
↑
すごくわかりやすい庶民的な自分を満たす方法!
取り調べ室を出た後、等々力と対面したタゴサクの言葉に等々力が「俺はそれを不幸せだとは思わないよ」
↑
等々力は社会への厭世が深く、でもそれを受け入れている。その上でタゴサクとは違う選択肢を取った。
長谷部の不祥事に対して、等々力の「わからなくもない」
↑
白とも黒とも言わないスタンス、それは人に寄り添う余白みたいなもの。しかし、世間は白黒つかないことを否定するかのような、メディアの冷たい目。
タゴサクは結局、明日香に「利用された」と感じたその時に「もういいや」と思い、一線を越えてしまうのだ。
しかし類家は、「明日香さんは本当は自首を進めて欲しかったのでは」
↑
自分が利用される人間であると思ってしまうその弱さは、過去の経験から自分を信じられないが故に。
しかし、自分を見てほしいという欲求を違う方向へと向けることもできたはず。
自分だけが明日香のことを止めることができる存在だ、と考えられていれば。
類家はタゴサクから「あなたならもっと上手く爆弾テロができたのでは?」という問いに「できる」とあっさり答える。
だが類家はそうしない。
類家は「俺はお前とは違う。やれるけどやらない。やるわけない。この世界を壊すよりもそれを食い止める方に働く方が難易度が高い。簡単な方に転ばない」と言う。このクソみたいな世界もまんざら捨てたもんじゃない、と言う。
映画の中で次々と起こる爆発。不謹慎だと思いながらもどこかワクワクと非日常を楽しんでいる。
私たちにもタゴサクの気持ちがわかってしまうところはあり、通ずる部分があるのだろう。
子どもではなく、ホームレスが事件に巻き込まれたこと。
どこかでホッとしていたのは、清宮だけではなかったはず。
相棒の矢吹が負傷し、倖田が復讐をしようとタゴサクに銃を向けそうになった時は感情移入してしまい、感情が剥き出しになった。
このまま打ち殺したらどんなにスッキリするだろう。
でも、そこを踏みとどまって裁きを受けさせること、それこそ『人間』なのだ。
『怪物』にはならない『人間』たちの世界を、私たちは生きている。

【ネタバレになります】
無期懲役囚の主人公が、これからどんな大逆転をするのか?というのが見所。
結論、愛する人に手紙で、その彼女にしかわからない方法でお金の隠し場所の地図をうまく作り、そのお金の場所に彼女の似顔絵と「愛してる」という言葉を残す。
トリック的には「なるほど!」という気持ちがあったものの、「それは、言葉にしないとわからないものだったのかな?」という疑問が浮かんだ。
まったく映画の主旨とは違うのだろうけど、私の感想はソレだった。
自分の子ではない子持ちの女性と一緒に住み、子育てをして時を過ごす。そしてその子どもの病気の治療費のために、人殺しにも加担して刑務所に入る。
その行動がすでに「愛してる」と言っているようなものではないかな?
女性にもその気持ちはすでに伝わっていたように思える。
だけど、きっと深読みすれば、主人公は女性に犯行の話はしていなかったから、突然姿を消し、刑務所に入ってしまったため、思いを伝えられないままだったと、死ぬ前に後悔していた。
だから、自分の口から伝えられなくても彼女なら手紙を地図と重ねて見抜くはず、お金と似顔絵を受け取っているはずだ、と。
実際、彼女が受け取ったかどうかは、知る由はないのだろうけど、死ぬ間際の希望のようになった。
無期懲役囚なのに大逆転?
死ぬ間際なのに希望!?
……という意表を突くトリックなのだろう。
日本人は「愛してる」と言葉にしないから、死ぬ前になって後悔するのかもしれないが、行動ですでに表れているのになぁ。
……だなんて、客観的に観るとわかるけど、そういう自分も夫からは愛どころか優しい言葉をかけてもらうことなく、不満に思っていた。
しかし、日々一緒に暮らすこと自体、食事を共にし、相手を思い合う行為そのものが“愛”であり、決して当たり前ではないはずだ。
……そんなことを考えさせられた映画だった。

『海辺へ行く道』を観てから数週間。なのに、なかなか感想が書けず……。
他の人はどう思ったかなぁと、レビューを読んでみたら共感する内容がチラホラ。
読むと、「そうそう!」と思うくせに、いざ書こうとしたら自分の中から出てこないという情けなさ……。
でも嘆いても事実だし仕方ないので、そのレビューたちを引用させていただいて、プラスで共感コメントを書くことに。
『しずか踊りの尺がもう絶妙でたまらなく良かった。手拍子だけが響くあの時間、クセになるよ』
↑
そう!盆踊り中、笑顔を見せてしまったら、審判からレッドカードを渡される。それには『また来年』と。寧ろ、笑ってしまって退場したほうが楽しいのではないかとすら思った。
しまいには日が沈んでも、5、6人だけがずっと真顔で海辺で輪になって踊り続ける…というシュールさにコチラは思わずニヤリ( ̄ー ̄)。
『虐待疑惑の介護士と金銭を盗んだと疑われるテルオのシーンで思ったけど、人って何かと自分の中での結末を望みがち。
起こった事柄に対して「実はこうなんじゃないか」と推理しては、それがその通りであることを心のどこかで望んでいる。
事実確認は後回し、自分を盲信すること。それって簡単に他人の人生の変えてしまう危険な行動だ。』
↑
二話目のこの話が一番印象的だった。
前者の虐待疑惑の介護士というのは、デイサービスのお年寄りを外へと連れていき、カエルの合唱を歌わせて、音程がズレた人に注意をしていたというもの。
これは、私も微妙なラインだと思っていた。この介護士は認知症を改善させているということで、テレビで取り上げられていた。
職場の老人ホームでお年寄りに、直に関わっている私としては、ずっと室内に閉じ込めていることに違和感を覚えることもある。
年に何回かはお散歩に連れていくものの、野外で合唱だなんてやったことはない。
確かにお年寄りは、寒い暑いに鈍感だからこちらで管理してあげたほうがいいし、認知症であれば合唱もきちんと理解できない人もいる。
だからといって、合唱がバラバラでも注意しなければ一向に理解できないまま。
その介護士は、全員がちゃんとできるまで何度も注意していたから、『認知症』だからといって『合唱ができない』と決めつけず、対等に扱ったのではないかと推測した。
野外に連れて行ったのも、『暑い』という感覚を自分の肌で感じさせるためでは?と感じた。
後者は、言語障害のおばあ様の家に読心術ができる高校生テルオが遊びに行っていて、おばあ様は自分の言いたいことをわかってくれるテルオに心を開いていた。
ある日、おばあ様の亡くなったご主人に会わせてあげようと、写真を見ながらご主人そっくりのゴムマスクを作った。
そのマスクを被って、いつものようにお家に入り、おばあ様を喜ばすことに。
しかし、その次の日におばあ様が亡くなってしまった。親族たちはテルオのしたことが原因だったのでは?とか、部屋にあったはずのお金が無くなったといってテルオに容疑をかけてくる。
結局、テルオは高校を退学させられてしまう。でもテルオは意に反さず、前向きに芸術に没頭していく。
言語障害の方からしたら、唯一の理解者のテルオには本当に救われる思いだったのではないかと、表情から見て取れた。
亡きご主人に似た格好で現れたテルオには感動していたし、それでビックリして息を引き取ったのではなく、安心して眠りにつけたのでは……と推測する。
だからテルオのしたことは、おばあ様ご本人からは良き行いだったはずだ。なのに、周りの大人が勝手に自分たちが納得がいくように解釈するという……モヤモヤが残った。
どちらのお話も、当事者にしかわからない気持ちがある。それなのに、一見理解できないことを第三者が納得できるように都合良く捉えていくということ。
これは映画の観客からはお話として、いろいろな人側の視点を見ることで視野が広がるけど、片側からだけだと私も勘違いするかもしれないと考えた。
『ラストシーン。画材の中にある2万円と写真。
写真を丁重に置いたあと、2万円そっちのけで絵の具と筆を使って夢中で絵を描く姿が、奏介のなかでの芸術(創作すること)の大きさを物語っていて良かった』
↑
そうそう!
これがすべてかもしれない。
私事だけど、今まで有料記事として執筆作品を掲載しても誰にも読んで貰えなかったので、すべて無料で公開することにした。
今の時代、無料でも無名の人間が書いたものは誰も読む気がしないのが普通なのかもしれない。
でも、もしお一人でも必要な方にお届けできたら作者冥利に尽きる。
もともとは自分が率先して書いていたのに、いつの間にか「売れたらいいな」から「売ろう!」になってしまった。
有料にして誰にも読んで貰えないより、無料でも求めている人に届けられたなら、“創作の力”が発揮されたことになるはず。
*すべて無料!の執筆作品集です*
仕事でミスをしてしまい、誰にも相談できずに悶々としていた時に出会った、励ましの言葉たちです。
「一回もミスしない、嘘もつかずに生きてきた人なんて、多分いません。
教会で懺悔したり、和尚さんに話きいてもらったり、相談電話で愚痴らせてもらったり、泣いたり、心療内科にかかったり。
いつの時代の人も、どこかで愚痴って泣いてきたんやと思います。時間たったら気持ちに折り合いつきますし、ほんま思い詰めないでください」
「人は経験して反省して成長するんです。
人は完璧じゃないんです。 上司だって同僚だって同じです。 みんな人が怖いからミスを黙っていたり、周りに良く思われたいと思って人の悪口を言ったりします。 悪気なんてないんです。 なので、過去(過ぎた事)は良い経験として考えてください。
もし、裏切ってしまった、迷惑をかけてしまったと本気で反省するのであれば、周りの人が喜んでくれる事をすれば良いと思います。 それは気を使って行動する事ではなく、あなたが気分良くいてください。そうする事で、周りの人に優しく気を遣う事が出来ますから」
「色々ありますが、今の姿が今の自分なのだと受け止めて、 現状なぜそういうことが起こったか 次起こさないために具体的に変えていくところに焦点をおいて、今より誠実に生きていくしか思い浮かびません」
「自分を責めるのも 他人を責めるのも、脳的には同じらしいからしちゃいけない。 日本人の本当にいけない ところは、自分をとことん 責めるくせして 反対に自分を褒めないこと。
これ脳的に最悪なんだよ。 本来はあまり責めないで とことん褒めるのが正解。 脳機能的にも。 この場合脳機能のプロなら すぐに過ちを認める自分は すごいんだ!とアファーメーションする 」
「したことは悪いことではない、とは言いません。しかし悪いことをしようとしてしたわけではないですし、誰かに迷惑をかけようとしたわけでもない。分かっていてやったことでもないんです。 次から気をつければそれでいいんです。だからそこまで気にすることではないと思います。 1度してしまったら、そこから学んで次に活かすんです。人間はそうやって成長するものですよ」

正直なところ、8月は観たい映画がないなぁと思っていた。だけど、大体お盆のこの時期はディズニーやピクサー映画を観ていることに気づき、評判はいまいちだけど鑑賞することに。
あまり期待していなかったので、席も余裕があると思いきや、ほぼ満席だった。一緒に行った母とはバラバラで座るはめに。
レビューは賛否両論だったから、自分にとってはどうかな?と半信半疑のまま、試すように観てみると……
結果、観て良かった!
『ここではない何処か』に自分の居場所があると思う気持ちは、共感する人は多いのでは?
私もそう思って、宇宙……ではなく世界旅行に若い頃出かけたことに、思いを巡らせた。
この世界のどこかに、私にピッタリと合う国や、家族のように深い繋がりを感じる人と出会えるのではないか、と。
確かにそれに近いご縁があったものの、今はこうして日本にいるのは、“歳”と共にいろんなことを受け入れられたからかなぁ。
映画の感想に戻ると、(ネタバレになりますが)主人公が偉業を成し遂げたことで、コミュニバースに地球代表として認められたのに、結局生きる場所は地球を選んだところ。最初は「あれだけ行きたかったはずの宇宙なのに、何で?」と、断ったことがもったいないように思って納得がいかなった。
しかし、地球代表として相応しい人だという“条件付き”で、受け入れてくれたコミュニバースより、問題児のままの主人公をありのまま愛してくれる叔母さんのいる地球を選んだ、ということだった。
エンディングで流れたBUMP OF CHICKENの『リボン』の歌詞、
「僕らを結ぶリボンは解けないわけじゃない 結んできたんだ」
こちらからもわかるように、家族だからって絆が元々あるわけではなく、意思を持って繋がり続けることが大事。
今いる環境で自分から歩み寄っていかなければ、どこに行ったって結局は変わらない。
私が『ここではない何処か』を探し求めていたときも同じだった。
今は歳を重ねて、世界は『自分専用』ではなく『共生』していく場所だとわかった。
始めから『合うもの』があるわけじゃなくて、時間と経験で『縁をつくる』ということ。自分が得意じゃないことでも、苦手な人とでも、時間と共有を重ねることで繋がることはできるし、そうすると恐れはなくなってくる。
始めから道があったわけじゃなくて、なんとなくでも続けた先に、道が出てくるというもの。
若いときは、視野が狭いから世界が自分を受け入れてくれない、と嘆くけれど、歳を重ねると自分が居心地の良い世界をつくれる……いや、環境を整える筋肉が鍛えられるのだ。

