負けるもんかSEVENTEEN'S MEMORY -28ページ目

不合格

相も変わらず、誰に読んでもらうつもりもない。

人には色々なストレス発散のやり方がある。

ここで、書くことで何かとストレスが少し減る気がする。

大声を出す、スポーツをする。趣味に没頭する。

人に当たるとろくなことはない。自分に返ってくる。因果応報(本来、良いことをすると自分に返ってくることで、悪いこともいつの間にか含まれるように使われる)。


案の定、不合格。

期待も何もしていない。

前回の試験日に母が倒れ、受験出来なかった。

折角だからと再申し込みしたが、ここ数ヵ月、病院に行ったり、介護施設に行ったり、

気にかけることが多すぎて、勉強するきにならず、3ヶ月もすれば殆どは頭から前の詰め込みは消えている。


焦りすぎた、まっ、危険物は乙種第4類以外は殆ど仕事として役立たない。


ちょっと、資格から一休み。

好きな本を読むことも私のストレス発散と言うか少なくともストレスの有ることから逃避できて、自分の殻に閉じ籠って居られる。


BOOK・OFFで興味のある分野の100円の新書や文庫を読み漁る。

介護、認知症、発達障害の本を数冊。

いままで得た知識の復習の意味もあるし、日進月歩の分野、新しい知識を上書きしておきたい。

あとは、気になった、

「大学教員採用、じんじのカラクリ」

他に感染症関連。


介護や認知症に関する本は、専門書から体験記まで。

阿川佐和子「看る力」は共感しながら読んだ。


介護って誰かに話すことで楽になるという。

いま、ヤングケアラーの問題がある。

誰にも話せないと言う孤独。

親の介護、認知症は昔なら他者に話しづらい事。

気軽に話せれば少しは楽になる。

話せないなら、せめて、本のなかでも共感してもらえれば楽になるのでは、と。






介護と仕事の間

まさに老老介護。

母親が病院を転院してちょくちょく病院から電話がかかってくる。

余り、いい心地ではない。

コロナ禍、面会が出来ないので、本人の様子が解らない。

電話があると、何か急変でも起こったかと、心配する。

内容は

「集中治療質から一般病棟にうつります。手続きのサインを」とか、

「靴を持って来てもらえますか」

「誤嚥防止にトロメリンを買って」

警備の者に言っておきますから、ロビーで受け渡すだけ。


容態の詳細が解らない。靴といっても、以前買ったものは浮腫んで履けなかったから、履きやすい物を買いに行く。

トロメリンって指定なのか?

近所のドラッグストアに「トロメリンあります?」って聞くと、よくにた名前のものがあるが、

結局、病院の中のセブンイレブンに行って、「トロメリン」をかう。

たけ~ぇ1000円以上、ドラッグストアには半額位のごあるのに、、、


そう言えば、仕事探さねば、と思うが、このご時世、折角、幼稚園、保育士の資格を持っているのに、と思ったが、いま、児童養護施設、保育施設などでクラスターの多発。

わたしゃ、ワクチン接していない。

多分、採用してもらえないだろう、ってか、此方も応募に踏み出せない。


どうしたものか?

あとはドラッグストアかガソリンスタンド

最低賃金に毛が生えた程度。悲しい。


何だろう、不幸の底にいる気分。

ほんと、鬱になりそうだ。


こんな愚痴書いたとて、好転するわけもない。

ただ、気持ちの捌け口になれば、鬱にならなくて済むか?




「年だから」の捉え方の違い

医師との会話で捉え方の違いを感じた。

「年だから」という言葉、つまり「老い」の捉え方の違いである。


医師は年を取ると細胞、臓器などの機能が劣る、病気になる、そうすると回復が難しくなる、という視点から老い、年だからと考えるようだ。

まあ、医者だから、当然な考え方であろう。

しかし、

私が年を取ると言う捉え方は、

身体機能、認知機能の低下する事が年を取ることと捉える。


つまり、年を取ると、

病気にかかりやすくなる、病気になると回復が遅くなる、回復しにくくなる。

と捉えるのが、医者、医療関係者


手足などの身体機能の衰える。認知機能が衰える。回復しにくくなる。

と捉えるのが、介護、福祉関係者


延命治療をするかしないかの判断がここで違う。

病気に対して治療の素手がなく回復が見込めなくなった時なのか


身体や認知機能の回復が見込めず、生活の質(QOL)が保てなくなった時なのか、


この二つの状態に大きな違いはない。つまり、植物人間状態になったとき人工呼吸器などで延命治療をするのかということだ。


私は、介護立場で老いを捉えるので後者である。

つまり、

病気を治す、病気の進行を止める事に手立てを尽くすのが医師。

身体や認知の機能を維持、回復、機能の低下の進行を遅らそうするのが介護。


どう生きるか、どう死ぬのか、の考え方の違いである。

たとへ、寝たきりでもいい、1分1秒長く生きるのか、

たとへ、寿命が縮まろうが質を保った生活を1分1秒長く送りたいのか、


これは立場によっても異なる。

医師や家族は1秒でも長生きさせたいと思うだろう。たとへ脳死状態でも人工呼吸器を装着してでも。

患者当人からすると家族や回りにできるだけ迷惑や負担にならないように居たい、迷惑をかけず負担にならないように元気で死にたいと思うだろう。

昔から言う「ピンピンコロリ」や

「嫁いらず観音」などの信仰に見られる。


年を取ること老いることの捉え方の違いである。


どちらが正しいと言えるはずもない。

すべての人が医療、介護なおいて悔いが残らないことだ。


それが、看取ると言うことなのかもしれない。



こう言う、金にもならないことを、音楽を起点に仏教文化を学び、福祉の資格、検定を受ける事で知識として得てきた。


高齢を迎える私はこれで良かったのかと、今更ながらに考える。

モーツァルトではないが死ぬまでに自分の為にレクイエムを書きたいと作曲家としての夢である。