通信19-43 セバスチャン・バッハについての小さなメモ | 青藍山研鑽通信

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作曲家太田哲也の創作ノート

 


誰よりも時代遅れ。時代遅れにもほどがある。誰もが知る時代遅れの作曲家といえば、そう、その点では筋金入りさ、やはりセバスチャン・バッハだろうね。何しろ彼が生きた時代からおよそ二世紀ほども前のスタイルで作品を書き続けたんだ。音楽の教科書にはよく、バロック時代の代表的な作曲家として紹介されているが、バッハ自身がバロックのスタイルを代表している訳ではない。正確に言おうと努めるなら、バロックが盛んな時代にたまたま生きた作曲家ってなところだね。いささか毒を込めて言うならば、世間様がバロックという新しいスタイルに浮かれ騒いでいる時に、自らのスタイル、それはゴチック様式に由来している、を貫きひたむきに研鑽を積んだ作曲家ってな事になるだろうか。

 


バッハが生きたその時代、調性に関する意識が飛躍的に進歩した。もちろんこの生粋の作曲家もその発展に大いに寄与したんだが、調性と戯れるように創作を続けた数多の音楽家たちとはそのやり方が全く違っていた。彼は二十四全ての調性でフーガを書くというようなとんでもない事に取り組む。「良く調律されたクラヴィアーのための曲集」では調性と対位法の関係をとことんまで突き詰めている。和声のよって支えられる調性。五度を基調とする和声法と、三度、六度の音程によって動きを展開してゆく対位法にはどうしても矛盾が生じてしまう。そのフーガは展開を続けるうちに時折調性の枠を飛び越えてしまいそうになるが(ト短調のオルガンファンタジーのようにその枠を飛び越えてしまったものもある)、その事こそ調性とは何かという事を考えるきっかけをわれわれに与えてくれるんだ。

 


紀元八百年頃に書かれた音楽学者ポエティウスによると、古代ギリシャには三つの音楽があったらしい。天空に鳴り続ける音楽と、人体の中に存在する音楽、そしていわゆる器楽、うん、われわれが今日音楽として捉えているものさ。天空に存在する星は完全に調和しており、その調和を学ぶ事こそが音楽にとって大切であるというのがギリシャ人たちの考えだという事になるだろう。

 


バッハの多声音楽は、どこまで独立した声部の絡みとして聴き取る事が可能だろうか。私は、完璧に調和するように書かれ、そのためもはや人々の耳には完全には聴き取る事ができないところまで完成度を高めたフーガ、そんな作品を書き続けたバッハに、古代ギリシャ的なものを強く感じるんだ。

 


うん、こう書いてゆくと最早時代遅れという言葉は狭すぎるね。時代というものを超越したと言った方がふさわしいんじゃあないだろうか。若い頃読んだパブロ・カザルスのインタヴューの中で、カザルスがバッハはどの時代にあっても同じバッハの姿で居続けただろうってな事を言っているのを見て、うへえ、ほんとかねえ、などと思ったもんだが、今はある意味その事がよくわかる気がする。

 


もうすぐこのブログを終えるその前に、一度はきちんとセバスチャン・バッハの事を書いておきたかったんだが、実際にこうしてパソコンに向かってみると、ああ、ゆるゆるの脳味噌からすっかり汚れてしまった言葉を垂れ流す事しかできなくなった今、到底そんな事は不可能だという事がわかった。せめて生徒たちとの会話のメモとしてちょいと書き殴ったってな感じの文章がこのメモさ。

 


昨日はお宮のそばの教会で、生徒たちの発表会を開いた。門下生?誰かにそういわれて思わずくすりと笑う。門下生でなければなんなんだい?うん、わからないね。ただもうどんな言葉も自分にはそぐわない感じがする。違和感。もう何年も自分の背中にべったりと貼りついている、それがこの違和感ってなやつさ。特に言葉は苦手だ。ああいっそ言葉なんか憶えなきゃあ良かった。いや、そんな事はどうでもいい。発表会ってやつは大いに楽しかったさ。若い人間がぐっと上達する、そいつを目の当たりにするってのは本当に楽しいね。幸い好天にも恵まれて。ああ、あと二三回、せめてそれぐらいこの発表会ってやつを開けたらいいな。

 


                                       2018. 10. 9.