通信19-44 五百円ぐらいなら | 青藍山研鑽通信

青藍山研鑽通信

作曲家太田哲也の創作ノート

 


久々に朝靄が立った。窓からみるその朝靄は淡いものだったが、青藍山のこの季節に立つ靄は深く、その入り組んだ高低差の激しい地形をゆっくりと靄に包まれ歩きながら、新曲のモティーフを練る自分の姿を思い浮かべ、近々またその仕事部屋に籠りたいと強く思う。

 


週末は舞踏家、岩下徹さんとセッションをした。ろくに決め事もせず、相手の出方に応じて、ひたすらパフォーマンスを続けるというものだ。この手の仕事をしたのは数十年振りだ。うん、数十年前、この手のものが大いに流行ったんだ。当時はハプニングという言葉をよく耳にした。何でもいいからお客さんを驚かせなきゃならなかったんだ。

 


若い私は確かに軽薄だった。自分からすすんでその手の仕事をやろうと思った事は一度もなかったが、何故かよく人に頼まれた。元々お調子者で、誘われたら嫌といえず、見るからに貧乏そうで多分ギャラも安いだろうと、そういう理由で頼まれていたんじゃあないだろうか。

 


誰も見ていないのに歩道橋の上で踊り続ける若い舞踏家に向かって音を投げ掛け続けたり、交番の回りを延々と回りながらマーチを演奏したり、動物園の檻の前で不安に怯える動物に向かって・・・、いや、もういい、思い出したくもない。

 


うん、それらの行動には理由がなかったんだ。理由がない事をするというのがそれらのパフォーマンスのコンセプトなんだが、さすがに嫌気がさしてきた。もう、うんざりだってな感じさ。やりたいやつ同士で勝手にやりゃあいいじゃないかと思い、意を決して断る事にした。二三度断ると、後は潮が引いたみたいに一切その手の依頼はこなくなった。

 


それから週十年、まだその手のパフォーマンスが続いているとすれば、未だに続けているその演者には相当の理由があるのだと思った。今回お誘いをいただいた時、私は岩下さんという舞踏家について、まったく知らなかったが、その方も長い時間、ひたすらに技を磨き続けてこられた方なのだろうと思い、恐る恐るお引き受けした。恐る恐る?そうさ、もう何十年もそういう仕事をしていないんだ。

 


実際にやってみると、やはり身体というものについて、身体が動くという事について、さまざまに考察を重ね、試行錯誤された方だという事がわかり、彼の動きに引きずられるように私も楽しんで音を出し続けた。出来栄え?そんな事自分でわかるもんか。それにわかったところで自分であれこれ言うようなもんじゃあないと思っている。ただ自分自身に関して言うと、数十分間のパフォーマンスの間、一音たりとも気持ちが入っていない音は出さなかったという確信がある。この十年ほど体調不良に悩み続けてきた私だが、はっきりと復活を自覚できた。それだけでも嬉しい一日だった。うん、何より私は舞踏ってやつが好きなんだ。

 


精神を病んで、ほとんど人前に出る事がなくなった天才バレリーナ、ニジンスキー。ある時、彼が久々に人前で踊るというので、ある貴族の屋敷に大勢の人が集まったそうだ。人々がじっと見守る中、椅子に座ったままぴくりとも動かないニジンスキー。彼が踊るのを待って、人々は固唾を飲む。その間、ニジンスキーの妻がショパンの小品などを弾いて、場をつないだそうだ。その時間があまりに長く、人々がざわめき始め、諦めた妻が演奏を止め、ニジンスキーを連れ帰ろうとしたその瞬間、大きく跳躍した。誰が?もちろんニジンスキーがさ。そのままばたりと床に倒れた彼は、「戦争だ」と一言叫び、猛烈な勢いで踊り始める。その踊りの凄まじさに、集まった人々は恐怖の涙を流し、口々にもう止めてくれと叫んだそうだ。

 


ううううん、いいねえ。いいじゃあないか。これこそが私が理想とするライブさ。もちろんこんな力も、契機も持たない私はひたすら揉み手をしながら、どうぞお聴き下さい、えっへっへ・・・などとやるしかないんだが、うん、本当にくたばる前に一度だけで良い、いや、一度しか無理さ、こういうライブをやりたいねえ。

 


そういえば昔、ハプニングとやらをこなしていた折、大抵そばで八ミリカメラが回っていたような気がする。ああ、私の恥の記録がまだこの世のどこかに眠っているんだろうか?いつか誰かが、「お前の恥ずかしい過去をばらしてやる」などと脅迫してくるんじゃあないだろうな。ああ、五百円ぐらいなら払いますから、それだけはご勘弁を。

 


                                      2018. 10. 16.