通信19-40 季節外れの受験生たち | 青藍山研鑽通信

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作曲家太田哲也の創作ノート

 


空気が乾いた気持ちのいい秋晴れの朝だ。近所のスーパーに出掛けた。スーパーまでの道の途中にある高校の前を通ると、あれ、何だか今日は人が多いね。色々な学校の制服を着た子たちがぞろぞろと校舎の中へと入ってゆく。母親らしき年配の女性と二人連れの子供もいるぞ。

 


学校の入口の前には数人の教員らしき人たちがにこやかな顔で子供たちを迎えている。張り出された紙には「通信科、作文試験会場」とあるじゃあないか。そうか、入学試験らしきものがあるんだな。色んな制服の子がいるのは、元いた学校に馴染めず、編入やら、転校やらを目論んでいる子供たちなんだろうか。ちょいとした緊張感があたりに漂っている。

 


うん、実はそういう学校なんだ。ここは。上手く世間というやつに馴染む事が出来ず、うつうつと過ごす事を、そいつは若木のような高校生にとっては恐ろしく過酷な事なんだぜ、余儀なくされた子供たちに門戸を開いている高校だ。私は縁あって、この高校で一年に一度、これまでに数回この高校の生徒たちの前で、詰まらないお喋りをしたり、演奏をしたりした。音楽の歴史について話したり、作曲の方法について説明したり、まるでライブのようにひたすらサキソフォーンを演奏した事もあった。

 


そうさ、私はこの学校の生徒たちが大好きなんだ。こちらのパフォーマンスに対して別に大袈裟に反応する訳じゃあない。静かなもんさ。でも確実に私の音を貪るように聴いてくれているのが伝わってくるんだ。自分の音が海綿のような彼らの心とかいうものにゆっくりと吸い取られていくのがわかるんだ。私がこれまでに出会った中でも一番良質の聴き手って訳さ。

 


初めてこの学校に招かれたのは四五年ほど前の事だ。われわれが高校生の頃には想像もつかないようなモダンな造りの建物、その一番端に音楽室はあった。その端の部屋に向かう廊下、そこには生徒たちが作った彫刻だの、絵だの、さまざまな展示物が並んでいた。おお、凄え、今にも動き出しそうな彫像、それが一体何なんだかはわからない。空想上の動物?巨大な昆虫?地球外の生物?うん、何だっていいさ。丹精込めるってのはこういう事さと言いたくなるような彫像だぜ。

 


それから壁に貼られた絵。いや、貼られたって感じじゃあないね。レリーフのように壁から浮き出てきたってな感じさ。最初からここにあるように、ここに絶対なければならないようにその絵は存在していたんだ。油絵。恐ろしいほどの厚塗り。絵具の上にさらに絵具を重ね、そいつはこんもりと盛り上がっているんだ。誰が書いたのかはしらないさ。でも、ああ、私は名も知らぬ高校生が一心不乱にカンバスに向かっている姿を思い浮かべてみた。塗る。それは一体どういう事なのだろう?決して手が届く事のない対象に少しでも近づこうと、一人延延と絵具を重ね塗り続ける高校生の姿を思い浮かべ、私は震えた。ああ、そうさ、物を作るってのはそういう事なんだ。

 


そんな高校生たちを前に一時間半ほどを過ごす。しどろもどろになりながら、それでも何かしらの手応えを感じながら。そういえば宮沢賢治の「風の又三郎」だっけ。音楽の時間。マンドリンを持った先生が教室現れ、そのマンドリンに合わせ皆で歌を歌って、あっという間に音楽の時間は終わってしまう。うん、そんな時間の高校生たちと過ごせたら本当にいいだろうね。

 


そんな事をぼんやりと思い出しながら朝の通学路を歩く。すれ違う高校生たち。さまざまな高校の制服の他にも私服の子もいる。何だか奇抜な格好の奴もいるぞ。緑のワンピースに緑の髪の毛。ナチスドイツの制服みたいなものを来ている子もいる。おいおい、ドイツからの留学生ってな訳じゃあないだろうね。うん、でもこの服装ってやつも彼らなりの一生懸命な自己表現なんだろうね。さあ、何だっていいからさ。ともかく上手くやれよと通り過ぎる彼らの背中に向かって思う。うん、朝ってのはやっぱり良いもんだね。

 



                                      2018. 9. 25.