通信19-39 妖怪のようになってしまった | 青藍山研鑽通信

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作曲家太田哲也の創作ノート

 


今日にも書きだせるだろうとあたりをつけた新作が、なかなか書き出せないでいる。音ってのは不思議なもんで、そいつがぐいぐいと自分自身の力で進んで行くには、ちゃんとした形が必要なんだ。作曲家に出来る事といえば、その形を作り上げるだけさ。

 


さあ、その形ができあがったと思い、一気に書き上げようとしても、音、そいつは尻ごみする犬みたいに、いくらリードを引っ張っても身動きしない。しばらく五線紙の前で無駄に膏汗を流し、ううううん、この続きはまた明日を、何も書かれていない紙を閉じる夜もたびたびだ。

 


それが夜の事ならば、もう今日は酒を飲んで寝ると不貞腐れればいいんだが、日があるうちだと、うん、昔は平気で飲み始めたが今は昼酒をやめている、鬱々とした気分を抱えて街中を妖怪みたいにさまよう事になる。

 


ああ、今はその状態がもう一週間も続いているんだ。完璧にできあがったと思ったモチーフがいざ紙の上に乗せてみると、まったく転がらない、微動だにしない。それが動き出すモチーフなのかという事は、作曲を初めて数十年にもなるが、未だに見極められないでいる。

 


彼女の事を考えると里子に出してしまったような気分になる。彼女?うん、数年前から作曲の勉強をしにうちに通い始めたMちゃんの事さ。数年後の受験を見据えて、某大学の偉い先生の門下に加えていただいたんだ。夏休みや冬休み、その間彼女は東京の親戚の家で過ごす、そこで大先生や大先生の弟子、中先生だの小先生だのいろいろいるんだが、彼らから集中的にレッスンを受けるんだ。

 


作曲のレッスンの場合、先生と一対一で受ける個人レッスンと、数人で一人の先生に相対するグループレッスンとがある。グループレッスン、うん、その場で課題を貰い、それぞれが解いたその課題を皆で答え合わせをするように発表し合うんだが、そのグループレッスンが、頭がよく自意識が強いMちゃんには大いに苦痛らしい。

 


実は対人関係というやつが厄介なんだ。そこがクリアできず、潰れていく音楽家を嫌というほど見てきた。音楽の現場ってのはあまり良い雰囲気じゃあない。皆が何かしらのストレスを腹の中に隠し持っている。そんな現場で弱みを見せると、たちまち弱い小鳥のように突き回されてしまう。知っているかい?例えば一羽の盲しいた雛が生まれると回りの鳥たちは面白がって突き殺してしまうんだぜ。

 


教師によっては、たとえ自分が間違っても、リハーサル中はそれを絶対に認めるなとレッスン中に繰り返す者もいる。うううん、それはどうかと思わないでもないが、その教師自身が体験的に学んだ事なんだろうね。

 


「二十歳までの天才」ってやつを何人も見た事がある。彼らは単に忘れ去られるだけだが、一人一人がそれぞれ腹に抱え込んだ事情、そいつが人々から顧みられる事はない。あまりに上手過ぎて成人する前にその技を使い果たしてしまった者、現場にでて仕事の環境に食い潰されてしまった者、うん、さまざまだね。時折、とても気になる存在に出会う事がある。

 


以前、デュオを組みたいとお願いしたまま、うやむやになってしまったピアニストの某さんも気になる人の一人だった。某さんの演奏は一度しか聴いた事が無い。ある室内楽の演奏会だった。ヴァイオリンと管楽器とのトリオだったが、その某さんだけが一呼吸遅いんだ。テンポの感覚が違うとかいう問題ではなく、気持ちの問題さ。受け身になっているんだ。相手の欲求に応えようという事に心を砕きすぎると音楽は後手に回る。一度後手に回ると後は悪い循環に巻き込まれたままになる。他人の言葉で話し続けなけらばならないという苦痛を背負い込む事になるんだ。背中に背負ったそいつは岩のように思い。しかも次第に、うん、児泣きじじいとかいう妖怪みたいにさ、だんだんその重さを増してゆくんだ。

 


その某さん、多分少女の頃からかなりの修練を積んだ跡が見えるんだが、うん、どこかで他人の音楽に巻き込まれて自身を出せなくなってしまったんじゃあないだろうかと、そんな気がするね。

 


何となく彼女が地を出して弾いてくれたら面白いんじゃあないだろうかと思い、一度手合わせをお願いできないかと連絡して見たんだが、一度は気持ちのいいお返事をいただいたものの、あとは時候の挨拶へのお返事すら貰えなくなった。うん、私のような昼行燈にはわからない様々な事情があるんだろうね。でも某さんの判断、間違っていない気がする。 人は何かしら元気のない、迷い事に自己を掠め取られたような状態の時には魔がとりついてくるもんさ。「夏目友人帳」というアニメを見てその事を知った。うん、そんな某さんに近づいていった私は「夏目友人帳」に出てくるたちの悪い妖怪ってところだね。

 


                                     2018. 9. 24.