転寝から醒めると、部屋の中はすっかり薄暗くなっていた。時計を見ると、ああ、一時間ほど寝ていたのか。寝入りばなに吠えていたどこかの犬は、まだ吠え続けていた。大丈夫かね。喉を傷めたりしないのかね。
どんな夢を見ていたのかはまったく覚えがなかったが、何故か目が覚めると、寝汗をびっしょりと掻いていて、気分が猛っていた。濡れているシャツを替え、うん、何でもいいさ、体を動かしたかった。そうだ、衣替えをしよう。クローゼット?箪笥?ともかくそういったものの代わりに衣装を溜めこんでいる押し入れの扉を開く。ああ、盛り上がった衣類が私を見下ろしているじゃあないか。
私の衣替えは簡単だ。今の季節なら、押し入れの手前に積んである長袖のTシャツを奥に押し込み、その代わりの奥に押し込んである半袖もTシャツを手前に引っ張り出すだけだ。でも今年は違う。何だか徹底的にやりたくなった。
この部屋に、視覚障害者として引っ越してきてから早十年。もう今の私は障害者ではない。前の部屋から持ち込んで来たまま、手つかずの段ボール箱、そいつは押し入れの下の段の奥に眠っている。そいつをようやく片付けようと思ったんだ。元々何が詰まっていたのか自分でもよくわからない。そうさ、その荷物は、前の部屋でお手伝いさん代わりに私の生活の面倒を見に、汚い療養部屋に通って来てくれていた看護婦さんに作って貰ったんだ。
ともかくすべてを引っ張り出してみた。何だか私は衣類をあんまり持っていないんだよなあ、などと長年呟き続けていたんだが、出るわ出るわ、衣類がわんさか出てきた。しかもそのほとんどが見わけがつかないような同じものだ。黒の長そでTシャツ、黒の半そでTシャツ、グレーの長そでTシャツ、紺の長そでTシャツ、紺の半そでTシャツ、グレーの半そでTシャツ・・・。一体、どうやってこれらのTシャツを一人で着こなせばいいんだよ。今直ぐに十人家族になったとしても、皆でお揃いの服を着て街に繰り出す事ができそうだぜ。
Tシャツ、そいつを折りたたんでは積み上げてゆく。まるでバベルの塔みたい。おお、ぐらりと揺れた服の塔が崩れてきたぞ。まるで笑点という番組で、座布団が十枚たまった時のような光景だね。あの番組、座布団を十枚ためるとハワイに連れて行ってもらえるって本当かね?
私は靴下をあんまり持っていないんだよなあ、などと長年呟き続けていたんだが、おお、出るわ出るわ、大判小判なら嬉しいが、靴下じゃあ嬉しくないね。ともかくそいつがざっくざっくと溢れ出てきたんだ。一体何足あるんだい?もうこれで来世、ムカデに生まれ変わっても大丈夫だ。
この部屋、タオルがないんだような、そうだね、常々そう呟き続けてきたよね。ところがそのタオルがこれまた湯水のように湧いてくるんだ。赤白黄色、温泉のマークが入ったものまで。おや、スヌーピーのタオルがあるぞ。誰かお姉ちゃんが持って来たんだろうね。今でこそ、女っ気などさらさらないが、うん、十年も住んでいれば何か浮いた事の一つぐらいはあったんだろうね。
目が見えないってのは、何だかこういうところが悲しいね。何か買って来ても、押し入れに放り込んでしまえば、もうそれを探し出す事はできない。それでまた同じような物を買って来てしまうんだね。それにしてもこの部屋、十年も住んでいたのか。高校を卒業して以来、転々と引っ越しを続け、一所に十年も住んだのは多分初めての事さ。ああ、この狭い部屋でこのまま死んでゆくんだろうか。Tシャツと靴下とタオルに埋もれてさ。
片付けが終わり、何となく猛っていた気持ちが収まり、こんな馬鹿な文章を書いている。さあ、パソコンを閉じて原稿を書くんだ。新作が佳境に入っている。「彩り」のシリーズ、その連作の最後「風の彩り」ってやつを書き上げるんだ。彩り?そいつは私にとって和声の事さ。和声、その官能の楽しみにいよいよ別れを告げるんだ。そうして人生とやらの最後に本当の仕事をする。最後の官能、そいつをじっくりと絞り出してやろうとね、ここ数カ月、その下書きに没頭していたんだ。頭の中、そいつはもうぐちゃぐちゃさ、うちの押し入れどころじゃあないぜ。そいつがすっきりしたら、ああ、きっと世界はすっかり夏になっているだろうね。そしたら私は、水の中を泳ぎ回るように夏の光の中を泳ぎ回って・・・。
2018. 5. 1.
