我が家の仏壇にはお釈迦様と阿弥陀さまがおられます。
昔、親戚の真宗の僧侶がおまえりに見えた時に色んな仏さまがおられるんだねー、と皮肉を言われた事がありました。
お釈迦様を信心とするのか、阿弥陀さまを信心するのか、両方共に信心するとは、まだ信心が決まっていない迷っているのかな、早く方向を決めないと人生が無駄になってしまというように聞こえたのです。
宗教学者という人がいます。
何となく宗教を評論家として考察する様に思えてしまいます。
宗教界において何が根本的に問題なのでしょうか。
煩悩だらけの大衆が幸せになるにはどの様な教えがあるのかを明らかにする事なのでしょう。
その道を教えを極める方法、理論を明確にする必要があります。
経済において、有る程度の人が潤えば大衆にその効果が波及して全体に及ぶ、という事が言われます。
確かに一理はあるとは思われますが、貧乏が貧乏を呼ぶような大衆も多くいるのです。
この人達には波及しないで更に落ちこぼれてしまうのです。
比叡山で荒行をなされ大阿闇梨と言われる人が何人かおられます。
並大抵の修行では出来ない人を越えた荒行をなし終えた人の事で仏さまとも申せましょう。
しかし、先程の経済と同じに阿闇梨の仏徳が波及しない大衆がいるのではないだろうか。
その者たちをも救わねばならないのが大乗仏教の教えではないでしょうか。