感動日記 四二三七  天罰は必ず下る 令和六年六月十一日 | 雨にも負けず菩薩道

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菩薩の心で人生を生きる。

事務所の裏に古利根川が流れています。川巾は100m程です。

古代はこの川が利根川の本流であったのでしょう。

だとするならば今、現在の利根川の水量程が古利根川に流れていたと考えられます。

想像するだけでも恐ろしくなります。

鎌倉時代に源義経と弁慶が頼朝の追ってから逃げて利根川の高野の渡し(杉戸町下高野の万願寺橋付近)を越え、安堵した、との記述が高野村村誌に記載があるそうです。

それ程の大きな川であったのでしょう。

古代の幸手付近の利根川の流れは良くはわかりませんが幸手には有名な権現堂の桜があります。

その一角に“順礼の碑”なるものがあります。

江戸時代享和2年、長雨で利根川が決壊し土手の修復が激流の為に困難を極めていた時、通りかかった巡礼の親子が自ら人柱になり、逆巻く流れに身を投じました。

その御蔭で洪水が治まり修復工事が完成したとの故事があります。

生贄(いけにえ)という言葉が有ります。

 

神への供物として生きた動物を供えること、またその動物のことです。人身御供(ひとみごくう)とは、人間を神への生贄とすることです。

人柱とは、人身御供の一種で大規模建造物(橋、堤防、城、港湾施設、など)が自然災害や人災や敵襲によって破壊されないことを神に祈願する目的で、建造物やその近傍にこれと定めた人間を生かしたままで土中に埋めたり水中に沈めたりする風習を言い、狭義では古来日本で行われてきたものを指します。

何故、風習とは言え、この様な酷いことをするのでしょうか。

昔は洪水等の自然災害で多くの人が病気や飢えで簡単に亡くなりました。

それを天罰と考えたのでしょう。

我々が苦しみながらも生きていられるのは天、大自然のお陰であり天に対して人柱を捧げお許しを戴こうとの思いであり、人柱を捧げる悲しみ、苦しみ以上に天に対しての畏怖(いふ・恐れおののく事)の念を持っていたのでしょう。

天罰とは人間の欲望を根本から叩きのめす天からの災害をいうのではないだろうか。

大都市は人間が造ったものですが最も災害を諸に受ける所ともいえます。

昨夜はゴウゴウとジェット機の轟音が鳴り響いていました。

いつ真上に落ちてくるかも知れません。

巨大地震でいつ原発事故が起こるかも知れません。

温暖化でいつ集中豪雨や大洪水、竜巻が起きるかも知れません。

超高層マンションに平気で住むのが現代人のようですが人間が狂ってきているようです。

現代人は天罰に対しての感覚が希薄になってしまったのです。

南海トラフの巨大地震の予知が現実になりつつあります。

気象庁は最短で異常発生から30分程度で第一報を出し、警戒を呼びかけるとの事です。

32万人もの死者が出るとのデーターが出されていますが、その対策など出来るはずが有りません。

国民が現代病に冒されてしまっているのです。