毎日、夕食の前に風呂に入ります。
夏、暑くなると妻は勿体ないというので風呂ではなくシャワーになってしまいます。
まだ自然的ではないのですが湯につかりながら「南無阿弥陀仏」というお念仏が言葉になって出てくるのです。
そのお念仏は自分が称えようと思っているのではなく弥陀の方から一方的に称えて下さい、とおっしゃるのです。
祖父も、そのようであったようです。
DNAの性なのでしょう。
所で感謝とは謝りを感じると書きます。
果たして何に謝るのでしょうか。
自分を育んでいる万物に対して謝るのでしょう。
我々人間は他の命を食べ奪わなければ生きてはいけません。
他の命、有ればこその自分なのです。
さて他の命を奪ってまで生きて行く資格が有るのでしょうか。
昔、アイン・シュタインのメモが競売にかけられたという。
そのメモには「静かで節度のある生活は、絶え間ない不安に襲われながら成功を追い求めるよりも多くの喜びをもたらしてくれる」「意志あるところに道は開ける」との言葉でした。
幸せとは、「静かで節度のある生活」の中にヒントがあると言うのです。
自らを常に振り返れ、という言葉のように聞こえます。
お釈迦様の涅槃像を見ていると人間以外の多くの動物達がお釈迦様の死を悲しみ回りに集まっています。
何故、人間以外の動物達が集まっているのでしょうか。
お釈迦様も人間の子、当然、多くの生きものの命を奪い成長されたはずです。
その生きものたちの命に対して謝られ、大慈悲の心を世の為に費やされたのではないでしょうか。
その大慈悲心が人間以外の他の生きものたちにも及んだのではないでしょうか。
その時のお釈迦様の心境こそが「南無阿弥陀仏」のお念仏ではないだろうか。
人が生きていくには他の命を奪わざるを得ない、しかし他の命を奪わなければ生きてはいけない。
この切羽詰まった言葉こそが「南無阿弥陀仏」のお念仏ではないだろうか。
この念仏を称名せずして人間が生きてはいけない様に思われるのです。
親鸞聖人の言葉に「地獄は一定すみかぞかし」があります。
この言葉の中には殺生せざるを得ない人間の業が語られているのではないだろうか。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏