感動日記 四一九四 瞽女(ごぜ) 令和六年四月二十九日 | 雨にも負けず菩薩道

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昔、子供の頃でしたが冬の雪が降る中を雪をこざいて、めくらの女性三、四人が角巻を纏い列をなして歩いてきたのをうっすらと覚えています。

江戸時代から昭和の初め頃まで、三味線を手に縁のある村から村へ旅して歩く目の不自由な女性たちの姿が全国各地で見られました。

三味線と唄という芸を支えに生きる、「瞽女」と呼ばれる人々です。

当時は福祉制度などもままならなかったため、眼病を患った女性が自立して生活する道は極めて少ない時代でした。そこで彼女たちの多くは、三味線と唄を習い、米などの農産物と引き換えに身を削るような芸を披露していたのです。娯楽が少なかったこの時代、瞽女たちの三味線と唄は、明るさと哀しみを併せ持つものとして、彼女たちを迎える庶民にとっても数少ない楽しみの一つとなっていました。

 瞽女の活動は日本各地で見られましたが、中でも新潟県は瞽女の一大拠点として知られています。

冬の長い期間を雪に閉ざされ、幼い子どもが麻疹(ましん)などの病気をこじらせて弱視や失明にいたるケースが多く見られたのも理由の一つであると考えられています。

瞽女は、目明きの手引きに連れられて、三味線を携えて僻地の村々を唄って渡り歩いていました。

近世までにはほぼ全国的に活躍し、20世紀には新潟県を中心に北陸地方などを転々としながら三味線、ときには胡弓を弾き唄い、門付巡業を主として生業とした旅芸人です。

瞽女という呼び方については、静御前のように歌や踊りを職業とし、各地を流れ歩いた女性集団であるということから、「御前」がなまって瞽女になったという説があります。

 瞽女の特徴として、それぞれの地方で「瞽女仲間」と呼ばれる組織を作っていたことがあげられます。

盲目の男性「座頭」は全国的な組織を作っていましたが、それとは異なる組織作りが行なわれていたのです。

各地にある「瞽女仲間」の中でも越後の瞽女は勢力が盛んで、信州から関東にかけても進出しました。

そのため、瞽女といえば越後瞽女と言われるようになりました。

 越後瞽女は主に「高田瞽女」と「長岡瞽女」が知られています。

     

 一年のうち300日は旅をしていたといわれている高田瞽女は、頸城地方の他に魚沼や十日町、さらに群馬や長野まで足を延ばして巡業をしていました。

瞽女が訪れる村では、無償で瞽女たちを泊めて世話をしてくれる家があり、それは「瞽女宿」と呼ばれていました。

瞽女宿となるのは地主などの旧家で、瞽女が訪れると村人を集め、瞽女唄の興業が行なわれました。

村人たちは毎年瞽女が来るのを楽しみにしていました。

娯楽が少なかった当時、家族総出で唄と三味線を聴くことは、人々にとって大きな楽しみでした。

さて瞽女さが恋しいのは何故なのであろうか。

瞽女の生き方が何処か親鸞の生き方に似たような親しみがわくからのように思われるからのようです。