法句経に「人に生まるるは難し 今、命有るは有難し 世に佛あるは難し 佛の教えを聞くは有難し」とあります。
有難しとは有るはずがない、というような意味です。
人間はおよそ200万年前にアフリカで生れ、現生人類になったのが40万年~25万年前に現れたとされています。
わたしの命はどれ位の先祖の親の継続で生まれてきたのかを計算してみました。
一代を30歳だとして親は二人存在します。
何と600年前までの先祖さまの人数が200万人を超えるのです。
その中の一人でもいなければわたしの命は今ここにはありません。
万物の命の源は四十億年前に遡ります。
そして進化と退化を繰り返し何万種類の生物が今、存在し生きています。
所がこの生物達が他の生物の命を奪わなければ生きてはいけない業を背負ってしまいました。
その事を人類こそが自覚しなければならない立場の生物に生まれたのです。
朝、玄関を出ると色んな鳴き声の鳥が言葉を交わしながら鳴いています。
実は日本の動行動学者の鈴木俊貴さんが世界で初めて鳥類の言葉を操る能力を証明されたそうです。
鳥達も鳴きながら人間と同じように会話をしているのです。
夕方になると赤ちょうちんの方から焼き鳥の何とも言えない煙と匂いが居酒屋に誘います。
ある鶏を飼い経営している農家さんの話ですが自分の所で飼っている鶏は決して食べる事はしないそうです。
知り合いでドックランをやっていた人がいます。
彼は土佐犬を五頭位に馬や山羊に鳩など飼っている動物好きな人です。
当然、朝から毎日餌くれが仕事のようなものです。
最近、彼の所から欅の寄せ植え盆栽を貰ってきました。
やはり動物に餌をやるのと同じように水をくれなくては枯れてしまいます。
一週間位前ですが関宿で盆栽展があるからと誘いがありました。
彼が話すには犬に餌をくれたり盆栽に水をくれたりしていると愛情が生まれる、その事が尊い事だと言うような話をしてくれました。
確かに今迄は盆栽などには何も関心がなかったのですが盆栽に毎日水くれをしているとその盆栽が愛おしくなってくるのです。
そのような事もあり最近は道端に咲いている可愛い野花の名前を十種類位覚える事にしました。
万物の起源をたどればその源は皆、家族同士なのです。
しかし生物は他の命を奪い食らわなければ生きてはいけない運命を背負って生きているのです。
感謝という言葉は人間が生きて行く上での最も大切な言葉であり教えです。
謝る事を感じなさいという言葉であり、何に謝るのかと言うと他の命を殺し奪う、その他の命に謝りなさいという言葉ではないでしょうか。
この気持ちの無い人は高慢に生きている人であり、考え方によっては人間ではないともいえるのです。
さて謝れば許されるかと言っても決して、許されたり、消え失せるようなものではありません。
この事は人間で有る限りはどんなに偉い坊さんであっても天女のような美人であったとしても避けることの出来ない性であり業なのです。
さてそのように惨たらしい人間に果たして生きていく教えがあるのでしょうか。
その答えの教えが弥陀の誓願不思議の信心であり地獄は一定棲家ぞかしの自覚なのではないでしょうか。
この教えしか人間が救われる教えはないのです。
決して救われない所まで自らの罪業を自覚し、いわば地獄まで落ちなければ弥陀があらわれては下さらないのです。
そこまでの決心が生まれたならば決して弥陀は私の世界から手放さないと約束して下さっておられるのです。
吾々は食事を称して毎日、料理を行います。
その時に使う道具に俎板があります。
多くの生きものを殺したり捌いたり切り刻んだりします。
いわば生きものを地獄の送る道具なのです。
この事は余り考えられた事はないでしょうが己とは罪悪深重煩悩熾盛の凡夫であり極悪人であることの自覚を得てもらうための俎板であり、阿弥陀様からのプレゼントでもあると心掛けて生きたいものです。