細川たかしの「わたし、馬鹿よね~、お馬鹿さんよね~」から始まる「心のこり」という歌があります。
馬鹿は死ななきゃ治らない、馬鹿に付ける薬はない、馬鹿と鋏は使いよう、などとも申します。
自分から俺は馬鹿だという人が、いたとしても心から自分は馬鹿だと思っている人はいないのではないでしょうか。
私は馬鹿であるが、どこか利口な、いい所も心の隅に必ずあるのだ、という自惚れ心が残っています。
馬鹿は悪人にも通じましょう。
それは煩悩の仕業なのでしょう。
この煩悩こそが宗教の真髄に入り込めるかどうかの要なのではないだろうか。
歎異抄に「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもっと、そらごと、たはごと、まことあることなきに念仏のみぞまことにおはします。」その意味は「火宅のような不安な世界に住む、煩悩にまみれた人間の総ては、そらごと、たわごとであり、まことは一つもない。ただ弥陀の本願念仏のみがまことなのだ」火宅とは、この世は、ひさしに火のついた家に居るように、常のない、不安な世界である、という意味です。
煩悩凡夫の自覚こそが大きな物語の中に入る、阿弥陀仏の世界に入れるかどうかの重要な要素といえるのです。
自らの心の中にある悪魔をあぶり出さないと表われてくれないのです。誤魔化してはいけません。
徹底的に自らの心に潜む煩悩を自覚しなければ到底、阿弥陀仏の世界が分からず終まいで人生が空しいものと化す事でしょう。
煩悩具足の凡夫が阿弥陀仏の本願と出遇うことによって、わたしが生まれ変われるのです。
しかしながら阿弥陀仏の慈悲は本願を信じられない人をも救って下さっておられるのです。
勿体ない勿体ない、南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏と心の心底から言いたいものです。