春爛漫の桜の時期を迎えようとしています。
満開の桜の中にいると、この世とは思えないような気持ちになります。
「散ればこそいとど桜はめでたけれ」という歌の如くに生死の中にこそ、めでたさが秘められているのでしょう。
さてこのエネルギーは果たして誰がもたらしているのだろうか。
密教では大日如来、キリスト教では神さまがそのようにしているのだ、というのでしょう。
「わたし」という言葉があります。
日本においては明治時代までは使われていない言葉だったようです。
わたし、という言葉はキリスト教、西洋から伝わった言葉で「神のかけら」という言葉だそうです。
私は神のかけらである、という事になります。
神のかけら、とは神と同等であるということになるのでしょう。
故に我儘な人間、欲望だらけな人間が大自然を我がものとしてしましまったのです。
そして現在、その付けが地球汚染や自然災害となって我々を苦しめているのです。
確かに神が人間をつくった、という一面もありましょうが果たしてそれが真実なのだろうか。
本棚に佛說父母恩重經という経本がありました。
父母恩重経は正式には佛說父母恩重難報經というお経だそうです。
このお経は偽経、疑経などと言われ本来のインドからの原典からのものではなく中国で造られたお経のようです。
このお経は、ひたすらに父母の恩に報いるべきという、儒教的な教えを説いているお経です。
わたしは誰がつくったかと言えば神がつくった、というよりも父母がつくった、という方が自然であり真実ではないでしょうか。業と煩悩を背負いながら産まれてきたのです。
故にお釈迦様が、人生とは苦の娑婆である、と言われたのではないでしょうか。
そして何よりも他を慈しむ優しさが大切である、と結論されたのではないだろうか。
先日、小学校3年生位と幼稚園位の男の子二人が大通りの片隅を、手を繋いで歩いていました。
兄の方は車道側を弟の方は内側を歩いていました。
親から教えられていたのでしょう。
弟を少しでも危険から守ってやろう、という優しさからです。
他を慈しむ心、共生の心こそが地球を救う道なのでしょう。