幸せは一人一人の心の中にあります。
しかしその幸せに灯を燈してくださる方がおられるのです。
自己中心で煩悩だらけの己には灯の火はつけられません。
そのつけて下さる方が佛さまです。
しかし余程の佛縁がなければ佛さまはあらわれては下さいません。
人間にとって一番大切な事は、己とは幸せ人であるという自覚があるかどうかなのではないでしょうか。
考えたり意識しなければ幸せは感じられません。
幸せの中にいても幸せではないと思っている人が大多数です。
何故かというと幸せとは何かを教えられていなかったからです。
また、幸せとは宗とする真実の教えの中にあるのです。
さて真実の教えとは何なのでしょうか。
世界には数えきれない程の宗教があるそうです。
日本においても総計十八万強の宗教法人があります。
日本の仏教においても主な宗派だけでも十三派もあるのです。
その中から真実の宗とすべき教えを選んで下さいとは酷な話です。
真実の教えを見つけ出す基本は、己とは何者であるかをまずは己に問う事が始まりだというのです。
京都の永観堂の御本尊である見返り阿弥陀が宗教の基本であると思えるのです。
自らを振り返り観よと教えられ、そのような者は必ず救ってあげましょう、と振り返り待っていて下さっておられるのです。
自らを煩悩熾盛の凡夫であるという自覚を持つことが宗教の目覚めであり始まりだと思われます。
仏教の究極の幸せとは、今この瞬間の己の心の中にあるのです。
己に目覚めるという事のようです。
仏教においては真の教えとは、自力門か他力門か、聖道門か易行門か修行が大切であるか、それともお念仏か、が昔からの大問題です。
この問題に対して大原問答が有名です。
大原談義ともいわれ、浄土宗を開いた法然上人が、天台宗、真言宗、法相宗、華厳宗、禅宗などの学者たち380余人と対決した仏教の大論争です。
又、東大寺再建で有名な重源が、念仏往生に関する10箇条の質問を行い、それに法然が答えたとされているものがあります。この2つの論争の結果の中に真実の教えがあらわれているのです。
何故この2つの論争を仏教宗派が重要視しないのでしょうか。
その当たりが日本仏教の堕落の始まりのように思えるのです。
そして法然上人の弟子である親鸞聖人が更に教えを深められました。