感動日記 四五八八 宗教と政治 令和五年十一月二十七日 | 雨にも負けず菩薩道

雨にも負けず菩薩道

菩薩の心で人生を生きる。

 

政治家でこの人は政治家ではあるが宗教家でもあるというような人を知りません。

宗教家は宗とする教えの専門家、いわば人間の幸せとは何かを教える専門家であり政治家はその幸せを国民に与えるにはどのようにすべきかの専門家でなければなりません。

故に両者共に宗教家でもなければ国民を幸せに導くことはできません。

どちらも人類の幸せを願っての専門家でもあります。

 

無宗教者には政治は本来できないのではないでしょうか。

よくは知りませんが共産党の人や評論家には宗教がいらないのでしょうか。

 

そもそも人類にとって宗教が必要なのでしょうか。

宗とは教えの中にひそむ究極の理、つまり要義(奥義)・要旨(宗旨)を意味し、教とはそれを相手に応じて教え説くものです。

「本当の幸福」とは何か、幸せとはそんなに色々あるものではありません、人生は苦の娑婆である、行先のない旅では人生は空しい、人は必ず死を迎える、これらの問題を考えることが宗教であるが無宗教の人はその必要性を認めないということになります。

アメリカでは宗教のない人はお泊めする事が出来ません、というホテルがあるという。

何故かと言うと宗教を持たない人は人間ではないから、だというのです。

だとしたならば宗教を持たない日本の国会議員さん達は人間ではない議員が殆どだということです。ということは人間ではない議員さんに政治を託していいはずがありません。

宗教家も政治家も国民が皆、幸せになれるにはどのようにしたならば良いかを追求するという事では同じなのです。

大乗仏教的な考えがなければ宗教も政治も何の意味もありません。

しかしながら政教分離といいます。

重要なことは「国家と宗教」の分離であって、「政治と宗教」の分離ではないということです。

日本国憲法の精神が求める政教分離は、国家の宗教的中立性を要求しているのであって、宗教者の政治的中立を要求しているわけではありません。

政教分離は、国家が暴走して人間の内面を抑圧し、戦争にまで至らしめてしまった過去の痛ましい歴史を反省するために生み出された概念です。

信教の自由は先人の多年にわたる多大な犠牲の上に獲得されてきた尊い権利であり、大切な精神的遺産です。

国民の絶えざる努力によって守り続けなければなりません。

その意味で宗教者が政治に参加すること自体は素晴らしいことなのです。

 

慈悲や寛容の精神をもち、人間の幸福を追求し増進していく姿勢に立つのであれば、まさに政治の理想とも合致するのです。

国民生活の隅々にまで「人間の尊厳」や「精神の自由」を行き渡らせてこそ、健全な日本社会を作り上げることが可能だからです。