キリスト教やイスラム教などでは奇跡という言葉を使いその奇跡を信仰する教えのようです。
奇跡とは原因がないのに何かの現象が起こるという事なのでしょう。
一般常識や科学的にも奇跡などは起こりません。
それが起こるとする宗教はその時点で誤魔化しているのではないでしょうか。
奇跡は、人間の力や自然法則を超え、神など超自然のものとされるできごとで、基本的には宗教および信仰と結びついていることが多いのです。
超自然の出来事を奇跡というのでしょう。
そしてその超自然現象を信じる宗教がキリスト教やイスラム教なのです。
わたしにはそのような教えは納得できません。
しかしそれを信じているキリスト教やイスラム教の信者が殆どであるとは人類とは何と無知無明なのであろうか。
キリスト教のうち、正教会、カトリック教会、さらに聖公会・プロテスタント内の福音主義は、福音書(『新約聖書』)に描かれていること、たとえばキリストの処女降誕、病者の治癒、死者の蘇生、キリストの肉体的復活などについて、キリストの生涯においては超自然的な出来事が起きたとされています。
神自身が関わっているしるしとされ、人々を信仰へと導くものです。
イスラム神学では神との合一を体験し奇跡を示す聖者が数多く現れ、それらを崇拝する聖者崇拝が一般化しました。
仏教においては因縁という言葉があります。
仏教では、いっさいのものは因と縁によって生じ果が生じると説きます。世界の諸思想史を眺めて、因の重視はあっても、縁に及ぶ深い考察は仏教のみです。
因果の法則というものがあります.
わかりやすく言えば原因と結果の法則のことです。
過去に作った何らかの原因のために、未来の結果は決まるという法則性の事です。
善い行いをすれば良い結果が生まれ悪い行いをすれば悪い結果になります。
なぜ悪い行いをしてはいけないかと言うと、悪い行いをしたことによる結果が因果の規則(業)によって自分にいずれ降りかかってくるというのです。
過去の状況は変えられませんし、生まれ持った特質や環境を変えることはできませんが今いるその場所が闇であっても光へと進む人生を歩みたいものです。
親鸞聖人の和賛には光という言葉が殆どに詠まれています。
弥陀成仏のこのかたは いまに十劫とへたまえり 法身の光輪きはもなく 世の盲冥をてらすなり。