感動日記 四五八四 今生弥栄 令和五年十一月二十三日 | 雨にも負けず菩薩道

雨にも負けず菩薩道

菩薩の心で人生を生きる。

写真撮影のポイントはアングルとも言えます。

風景の中の素晴らしい部分のみを撮り入れるかが作品の良否を左右します。

普段は何も意識していない世界の中に極楽世界が潜んでいるようなものです。

秋の紅葉や花が一斉に咲き誇っている所や、鈴なりの赤い柿などを集中して見ているとこの世ではない極楽浄土にいるような気分になります。

そのような気持ちを彷彿というのでしょうか。

佛さまに似ている、佛さまとそっくりのような気持ちという意味です。

法句経に「ひとの生をうくるはかたく やがて死すべきものの いま生命(いのち) あるはありがたし 正法(みのり)を耳にするはかたく 諸仏の世に出づるもありがたし(友松圓諦訳)」

有る事難し、という言葉は、有るはずがないけれども縁が有って今此処に花が咲いているというような意味です。

特に命あるものに対しては驚くべき出来事なのです。

そして人間として生まれてきたことは更に有り得ない出来事です。

更に佛法を聞かせて戴くとは難中の難の出来事だというのです。

このように有るはずの無い人の命は誰でも光輝いているのです。

諸行無常での一期一会のお互いの人の命の出会いは極楽浄土そのものなのでしょう。

人間とは煩悩熾盛の凡夫であるという一面と、この世に生まれるはずの無い命を賜って生まれ輝いている、という両面を備えている生きものです。

それが自分であるという自覚が大切なのでしょう。

そのような己に対して阿弥陀様があらわれて下さったのです。

私が仏になったならば大宇宙の生きとし生けるものすべての人をも絶対の幸福にしてあげます。

もしも、それが出来ないならば私は佛にはなりません、と誓われ命がけで永い間、修行をされ、それが叶えられ如来になられたのです。

阿弥陀仏は、正覚を担保に入れて、これでも信じないかと命をかけて誓っておられます。

命をかけて必ず救うというのです。

「わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。」

人生は苦の娑婆と申します。

その苦とは、その人に今、降りかかっているのです。

将来、苦がやってくるのではなく今、悲しんだり悔しがったり憎んだり憂いたりしての苦なのです。

所で幸せはというと殆どの人は今が幸せの絶頂にあったとしても幸せを感じないで、いつかは幸せがやってくるであろう位の気持ちなのです。

 

結婚式の時には今が最高に幸せのはずなのですが多分そのような幸せ感は生まれてこないのではないでしょうか。

本来は今、生きているその事自体、あるはずのない命に恵まれて生きているのです。

しかしその事を自覚する事なく人は生きています。

しかもその命は弥陀が助けているというからただ事ではないのです。

それに気づくことなく俺の命だとして生きています。

 

今生弥栄 南無阿弥陀仏