明るいという字は太陽の日と月から出来ています。
昼と夜、明るさと暗さを表している所を引用しての明るさなのでしょう。
事務所に四体の仏像があります。
どの仏像も光ってはいません。
仏壇の御本尊だけは金ぴかなメッキで出来ていますが輝いてはいません。
どの仏像も実は光輝いてはいないのです。
いうならば美術作品であり物なのです。
しかしその仏像や掛け軸の御本尊が光、輝くとはどういう事なのでしょうか。
自らの修行によって宗とする教えが見つかり御本尊をお迎えしたとしても、その御本尊さまからは一向に光がさしては下さいません。
いくら求め経を称えたとしても御本尊は光、輝いては下さいません。
佛さまの光は己の心を超えた所から既に光輝いていてくださっているというのです。
それが愚痴で盲目の己にはわからないというのです。
自らが佛さまの光を遮断しているというのです。
吾々が阿弥陀様からの誓願に包まれ既に救われていると同様に吾々の目には見えないのでありましょう。
親鸞聖人は、「摂取心光常照護」(摂取の心光、常に照護したまう)と詠っておられます。
これによれば、私たちは、全てを摂取ろうとされる阿弥陀仏の大慈悲心の光に常に照らされ、常に護られているというのです。
この光に照らされているという事実によって、私どもの心の「無明」の闇は、すでに破られているというのです。
「無明」というのは、根元的な無知です。
真実に暗く、真実を知見する智慧の明るさが欠けている状態です。
それが凡夫の迷いの根本となる煩悩だというのです。
「無明」は、私どもの心のなかでは「愚癡」という姿をとって働きます。
「愚癡」は、どうしようもない愚かさです。
何が真実であるのか、全く分かっていないのです。
真実が分かっていないだけではなく、その分かっていないことすら、分かっていないのです。
逆に、自分には分かっていること、それが真実だと思い込んでいるのです。
まことに愚かというほかはありません。
哀れで滑稽なのが吾々の姿なのでしょう。
しかし、わたしはこの阿弥陀様の光を見る為に生まれてきたのです。