幸せ者は誰ですか、という歌があったように思えたのですがありませんでした。
それは井上陽水が歌う、夢の中へ、という歌でした。
「探しものは何ですか見つけにくいものですか、カバンの中もつくえの中も、探したけれど見つからないのに、まだまだ探す気ですかそれより僕と踊りませんか、夢の中へ 夢の中へ 」という歌でした。
言葉は言魂とも申します。
人を幸せに導いてくれる多くの言葉があります。
例えば、吉川英治の「我以外皆我師」一つとってみても理屈では分かっていても真に実践する事は容易ではありません。
又、一期一会の言葉にしても今あらわれている全てのものとの出会いはこの瞬間しかないなどは理解などできないのです。
人は幸せになりたいと思ってはいるのですが、探しているようで欲と煩悩が絡み合い中途半端な所で断念してしまうのです。
それも肝心な幸せとは何かを教育では教えていないのです。
信教の自由の観点から教えてはならないのです。
教育とは教えを育むという事なのですが、その教えを教えてはならないのです。
最近の世相からして、教育が大切だとは言ってはいますが根本の所が狂っているのです。
この世にあるはずの無い命を戴いたにも拘らず欲望と煩悩の渦巻きの中で、もがき自らの惨たらしさを見つめようともしない出来損ないがこの己なのです。
「雑法藏経」というお経の中で、釈尊は「財力や智慧が無くても七つの施しが出来る」ことを教えておられます。
無財と云うのは、費用も資本もそして能力も使わないで実行できる布施のことです。
その七つの布施とは、優しい眼で人に接する。
笑顔で人に接する。
優しい言葉で人に接する。
自分の体で奉仕する。
人の痛みを自分の痛みとして思う。
席を譲ってあげる。
思いやりの心を持って行動する。
以上が無財の七つの施しですが、すべて仏の立場に立っての慈悲の実践です。
わたしは必ずと言っていいほど見返りを求めてしまう極悪人です。
そんな自分を救って下さるのが阿弥陀様しかおられません。
生きている限り阿弥陀様の教えを聞き続ける事こそが幸せの真っ最中にいるのです。
インドでは挨拶の時、必ず手を合わせ合掌します。これはあなたの心の中の仏様(仏心)を敬います、という気持ちの表現だそうです。