人の命は尊いとは言いますが何故、尊いか、と問う人はあまりいなようです。
又、明確に答える人もおられないようです。
何故なのでしょうか。
大変難しい問いだからであり仏教はこの問題を解く為に多くの教えがあるのでしょう。
その答えについて、わたしなりに人には仏性が備わっているからだと、思えるのです。
何故かというと涅槃経に説かれているからです。
お経の数は、八万四千の法門と言われるように膨大な数があります。
昔から伝えられ教えられているという事はその教えの中に真実が秘められているからなのでしょう。しかも涅槃経は最も重要な経典だと言われています。
その教えには「一切衆生 悉有仏性」(一切衆生 悉く仏性有り)とあります。万物すべてがそれぞれを他のために役立てる、機能を保持しているという事で仏性を備えているというのでしょう。
万物に仏性が有るという教えから、昔の人は「一切のものに仏さまが宿っている」と素朴な信仰心を持っていました。
峰の色 渓(たに)のひびきも みなながら 我釈迦牟尼の声と姿と 道元
一切衆生悉有仏性「一切衆生に悉く仏性有り」と読み。
あらゆる衆生はみな仏性をそなえているとの意です。
仏性とは、仏教における基本的な概念で、すべての生き物が持っているとされる「仏としての本質や可能性」を指します。
これは、すべての存在が最終的には仏果を得る可能性を内包しているという考え方に基づいています。
すべての生き物が平等に仏性を持っているとするこの教えは、人々に対する差別や偏見を乗り越え、すべての存在を尊重し合う心を育むための基盤となっています。
仏性が示す「すべての存在が平等に価値を持つ」という考えは、現代の多様性を尊重する価値観とも合致しています。
仏性とは、仏教の教えに基づく、すべての生き物が持つ「仏としての可能性や資質」を指します。
涅槃経によると誰もが悟れることになります。
人だけではありません。命あるものすべてが悟れるというのです。
そうした意味から「草木国土悉皆成仏」という言葉が生まれました。草も木も大地もみんな悟れるのだ、という意味です。
そしてさらに「山川草木悉有仏性」という言葉が生まれました。
「山も川も草も木も、命あるものすべてに仏性がある。
すべてが悟れるのだ」つまり、悟りを得る能力のないものはいない、ということにいきつきました。
誰しも皆平等に悟りを得る素質を備えているというのです。しかしその自覚、認識が人には容易にはできないのです。
仏師 松久朋琳先生の言葉に、「仏は木の中に既に御 座す(おわします)。仏師はその周辺にへばりついた余分なものを取り去るだけです。 周囲にへばりついている煩悩や執着などの余分なものを取り除 かない限り、人間の仏性は輝かない)」とありました。
「山川草木悉有仏性」「山川草木悉皆成仏」は日本独特の言葉のようです。
日本では常に具体的に草木が人と同じように修行し、成佛する様を考えているというのです。
草木も人と同じように修行している様を考える日本人の感性が日本的生命観を考える上で甚だ重要な要素であり、山に山ノ神が宿っていると考えるのではなく、山を一個の生ける存在とみる感性です。
この感性は日常の器物供養や実験動物慰霊祭にいきつづけていまあす。
またこれは赤潮の海や削られた山を痛々しいと思う感性です。
環境世界には環境世界のいのちがあること、そのいのちは自分のいのちとつながっていることを感じ共感しようとする感性に支えられた悉有仏性論に、環境創造の古くて新しい原動力をみるようです。
形をもって存在するすべてのものは、存在するだけの必然性をもってこの世に存在しているのであり、万物がそれぞれに必然性をもって存在しているというその限りにおいては、草木であれ、土石であれ、あらゆる形をもって存在するものは人間を含めて平等だというのです。
今朝の読売新聞の編集手帳に物理学者の中谷宇吉郎が保母が「御米の粒の中には一粒一粒に佛さまがいらっしゃる」という話が掲載されていました。