昨日は眠っていて何かに魘(うなさ)れ自らの呻き声で目を覚ましました。
最近、は魘されるような事がいませんでした。
わたしが小学三年生頃まで毎日の様に何かに魘され追われているような夢を見ていました。
夜が来るのが怖くて嫌で堪りませんでした。
何故かというと両親と乳飲み子三人で満州から引き上げて来た時にロスケに掴まったり死んだ真似をしたりして逃げて来た時の両親の過去の悲惨な出来事がわたしのDNAに纏わりついていたからなのでしょう。
乳飲み子はわたしの兄で帰国後、直ぐに亡くなってしまいました。
魘(うなされる)という字は鬼も厭(いや)になるという字です。この世にはもう一つ別の世界があるような雰囲気の字です。
このもう一つの別世界の物語がお能のようでもあります。常に化物が出てくるのです。
昨日は知人から薪能の券を戴き行って参りました。
本来ならば屋外で催されるのが薪能なのでしょうが文化会館での公演となりました。
お能は足利時代からのもので日本文化の象徴とも言えます。
全ての無駄を省いた世界に類を見ない最新式の芸能でもあります。
昨日の演目は狂言がシテ野村万作の蝸牛(かたつむり・かぎゅう)、能はシテ櫻間右陣の弓八幡(ゆみやわた)でした。狂言の方は何となくわかった様でしたが能の方は、はっきり言ってチンプンカンプンでした。
僧侶の読経と能は歴史の産物でしょうが良くも古代から絶える事無く続いてきたものだと感心してしまいます。
「目前心後」(目で前を見て心を後ろにおけ)世阿弥