感動日記 四五〇七 人徳と度量 令和五年九月六日 | 雨にも負けず菩薩道

雨にも負けず菩薩道

菩薩の心で人生を生きる。

自民党の世耕参議員が次期総裁は岸田首相が望ましいなど、とんでもない事を言っています。

しかし自民党としては、そのような事もありなんという空気のようでもあります。

確かに自民党としての理想はあるのであろうが良く言えば幅があり寛容である、悪く言えばつかみどころがなくいい加減であるとも言えます。最近、参政党の松田学氏が代表を辞任しました。

理想を掲げて組織をつくる事は当然なことではありますが、美しさの中には醜をも包み込む包容力、謂うならば人徳、度量のようなものがなければ組織は成り立たないのではないでしょうか。

福聚海無量(福寿海無量)という観音経の言葉があります。

福寿とは、福徳すなわち功徳、善行と寿命のこと。 この二つが海のごとく無限無量であるというめでたさを意味している。 よって、人生は心がけ次第で、見方次第で「福でいっぱいの海」になりうるとの意です。

   

 

智仁勇を備えている英雄の中の英雄だと言われている武将に楠木正成がいます。正成は、高い志だけでなく、したたかな合理性、そして深い人徳も持っていたのだそうです。 

敵方であった足利尊氏でさえ、戦死した正成の首を丁寧に葬るほどの、人徳があったそうです。

「以下公益財団法人・関西・大阪二十一世紀協会 第七十六話 

楠木正成より抜粋です。]

河内の一豪族ながら、学問(朱子学)に親しみ、宗教心も篤く、百姓、庶民と共に理想社会を築こうとした見識・人格共に優れた人物である。それ以前の武将は腕力を誇るのみであって主君に弓を引く下剋上や返り忠もあったが、正成は、教養を積み江戸時代に花開く「義」を重んじる「武士道」の先駆者であった。水戸光圀の尊崇を受け、幕末の尊皇の志士、吉田松陰、坂本龍馬、高杉晋作、西郷隆盛等の精神的拠り所となった。明治天皇の崇敬も篤く、第二次世界大戦終戦までは歴史上最大の英雄の一人であった。ちなみに明治天皇の佩刀(はいとう)は楠木正成が所有していた刀である。正成は、大局観を持つ戦略家であり、優れた戦術家でもあった。元弘元年(1331)正成は後醍醐天皇の討幕計画に応じ5百余の軍勢で下赤坂城に兵を挙げた。数万の幕府軍との最初の攻防では奇策を用いて奮戦するが、兵糧攻めに遭ったため城に火を放ち脱出する。1年後、四天王寺を占拠するが、いち早く逃げ出し、そのあとを占領した敵軍を夜間周辺の民を動員して毎晩松明で脅かし、わずか四日後に戦わずして退却させる。翌年、千早城に一千人の兵士と立て籠もり幕府の大軍八万を迎えて再び兵糧攻めに遭うが、逆に幕府軍は八万の兵糧を賄えず総崩れとなる。

 

元弘三年(1333)五月、鎌倉幕府滅亡。翌年一月「建武」と改元、後醍醐天皇の親政建武中興が始まる。

建武二年(1335)十一月、足利尊氏が謀反の兵を挙げると正成は天皇方の武士として立ち上がり、尊氏は一時九州へ敗走する。その後、尊氏が大軍を率いて東上するとの報に、公家達は朝廷の軍議において正成の建議を取り上げず、正成は尊氏・直義兄弟をくいとめるべく兵庫に向かう。途上桜井の駅にてわが子正行に河内へ戻れと命じる。唱歌にうたわれた「桜井の別れ」である。正成は摂津国で迎え討ったが敗れ、弟正季(まさすえ)と七生滅賊を誓い刺し違えて殉節する。同地には明治五年(1872)、明治天皇の勅命により別格官幣大社「が創建された。