一ヶ月程の入院で、これを乗り越えるにはどのようにな心構えが必要かを考えた時、大自然は何も考える事もなく動いている、この大自然と同じようにくだらない事を考える事なく南無阿弥陀仏の俎板(まないた)に載せられているかの如くに何も考える事なく過ごしたなら何とか乗り越えることが出来るであろうとの思いで過ごしました。しか
し幾らそのような思いであったとしても、つい妄想がよぎってくだらないことを考えてしまうのでした。そんな入院の日々でしたが無事に退院する事が出来、一ヶ月程が経ちました。
例えば佛さまから貴方は今、生きていますか、と呼びかけられたならば、はい、生きています、と答えられるであろうか。
人間の殆どの人は生きているという事を考えないで生きているのではないだろうか。しかし生きているという世界の中で生きてこそ本来の人間としての生命のはずです。女高生が二、三人で些細な事で嬉しくて堪らないというようにはしゃいでいる事があります。
しかし彼女たちの喜びはひとしおであるにもかかわらず、無意識で幸せの絶頂である事を知らないのです。
最高の幸せであるにも拘らずそれを知らないという事のない様に生きた時こそ人は生きていると言えるのではないでしょうか。
その実践こそが人生を生きる意味となるのではないだろうか。
人生の根本である弥陀の本願の中に摂られて生きているという意識を基本として生きる事こそが人生の醍醐味といえるのではないだろうか。いずれにしても所詮、人生は世間虚仮であり唯仏是真なのであろう。
それには弥陀の本願の信心が肝要です。この信心を得ることは難中の難で余程の縁がなければ信心は生まれません。歎異抄の冒頭の言葉が人生の生き方に対しての全てを物語っているようです。今までも、これからの思想も哲学も宗教もこの教え以上のものはないと思えるのです。
弥陀の本願とは
たとえ私が、仏陀(真実に目覚めたもの)となりえたとしても、もし生きとし生ける全てのものが、ほんとうに疑いなく私の国に生まれる事が出来るとおもうて、たとえわずか十遍でも私の名を称えながら生きているものを、もし私の世界に生まれさせる事が出来ない様なら、私は本当に目覚めたものと呼ばれる資格がありません。
歎異抄には
弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。
念仏者は無碍の一道なり。そのいわれ如何とならば、信心の行者には、天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。
罪悪も業報を感ずることあたわず、諸善も及ぶことなきゆえに、無碍の一道なり、と云々。