心臓を患いあの世とこの世を旅してきました。
来世にはもしかすると阿弥陀様があらわれて下さるかも知れないとの思いも空しく、それらしき気配は、一度もあらわれては下さいませんでした。
この世では少しはいい事もやったかも知れません、又、多くの大罪を犯したかも知れない、しかしそんなものの思いは何もありませんでした。
只、器械にあらわれている生のバロメーターのままに生から死に往くのであろう、との思い位でした。
その様な思いから死は決して怖くはありませんでした。
しかし世の中は見えない世界、真実な世界、思いの到らない弥陀の本願に支えられた世界の有る事が頭の片隅に黄金の光の塊となって雨の岩戸の如くに隠されていたのではないだろうか。
否、吾々が当然だとしている昼間の明るさは、既に弥陀の光の中にあり、明るいが故に吾々には分からないだけなのではあるまいか、と思えてしまうのです。
西遊記に出てくる孫悟空の物語があります。暴れん坊の孫悟空が過去の己の姿を覗いたならば全てが佛さまの手の中での行動であったというような物語です。
どんなに、じたばたしても所詮は弥陀の本願の中に包まれているのである。
さすれば人はどのように生きればいいのだろうか。
一休さんの答えは諸悪莫作 衆善奉行(しょあくまくさ しゅぜんぶぎょう )悪いことをしてはいけません。良いことをしましょう。これこそ、秘伝、仏道の究極です。
一休禅師が書かれた掛け軸が有名です。
悪いことをしてはならない、良いことをしましょう。
当たり前のことなのですが、これがなかなか難しい事です。
中国の詩人、白楽天はある著名な禅僧のもとを訪れ、「仏教の根本の教えとは何でしょうか」と質問しました。禅師は即座に「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸佛教」と答えました。(もろもろの悪を作すこと莫かれ、もろもろの善を奉じ行い自ら其のこころを浄くする 是が諸佛の教えなり」と答えます。
あまりにも平凡な答えに白楽天はあきれて「そんなことは三歳の童子でも知っていることでしょう。
馬鹿にしないでください」と言い返したところ、禅師は「三歳の童子でも知っているであろうが、八十の老人でさえ行うことは難しい」と平然と答えたといいます。