感動日記 四四九七 人類の進化と退化 令和五年八月二十八日 | 雨にも負けず菩薩道

雨にも負けず菩薩道

菩薩の心で人生を生きる。

人類と呼ばれる生きものになったのは約20万年前だという。

所謂、四つ足から二足双方になったという事なのでしょう。

その四つ足の時からの名残が女性の陰毛として、いまだに消え失せる事無く継続しているのです。

四つ足の時には、おしっこの雫が、毛が有る事によって、お腹の方に垂れてきて動物としての臭い付けにもなり男性にも己の存在を示せるというような観点から未だに女性の陰毛は退化しないのです。

種の子孫繁栄の為の名残なのです。

わたしの腕の長さが右手の方が左手よりも2センチ程長くなっています。

つるしのスーツを買うと左の袖を詰めないと体全体がチグハグになってしまいます。

右利きの為に右腕が長くなってしまったのです。

最近は初めての目的地に行く時には必ずカーナビを使います。ナビに頼りすぎて方位感覚がなくなり、帰り道もやはりナビを使うようになってしまいます。頭から方位感覚が退化してしまうのです。

人体は訓練する事によってオリンピックで金メダルを手にする事もできるのです。

するとその子供までもがそれを引き継げるような体になって生まれるのです。

たまに東京の勝どき当たりの高層ビル付近に行きますが海抜も7m位で海面です。

津波が押し寄せてきたならどうしようか、という恐怖感を覚えます。又、高層ビルに入る時にはビルが崩れて来ないだろうか、50階も高い所に行くとビルが、巨大地震が起きて倒れないだろうか、というような恐怖感が付きまといます。

しかし常に仕事柄、行きつけているとそのような感覚がなくなってしまうのです。

所謂、動物的な感覚が鈍り感覚が退化してしまうのです。自然に災害など異変が起きる前にその僅かなシグナルをキャッチして生きものによっては逃げたりもするそうです。

犬は昔から「鼻で考える動物」と言われ、犬の臭覚力は人間の3,000倍から10,000倍と言い、特定の匂いにおいては、人間の100万倍以上とも言われています。驚くべき嗅覚です。

「生物は進化する」という事では科学的には受け入れられていますが、宗教や国によっては信仰的、社会的に受け入れられているとは限りません。

アメリカ合衆国の南部などいくつかの州では、プロテスタントの一部に根強い聖書主義の立場から進化論が否定されています。

ケンタッキー州には、進化論を否定する創造博物館が建てられてもいます。

カトリック教会ではローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が、「進化論は仮説以上のもので、肉体の進化論は認めるが、人間の魂は神が創造されたもの」だと述べています。

人間の精神活動の源泉たる魂の出現は、進化論的過程とは関係ないとする限定つきで、進化論をキリスト教と矛盾しないものと認めたのです。

生物学者の中には敬慕な信仰を持つものもおり、その一部は生物の進化を神の創造の過程と見なしています。

聖書では神様が天地をつくり、動植物をつくり、そして最後につくったのが人間、すなわちアダムとイブという事になっています。

人間を何故、神がつくる事ができたのでしょうか。

類人猿的な雄と雌の交わりから進化を繰り返し人類は生まれたのです。

決して人間は神がつくったのではありません。

 

人間を神がつくったとする教えから人間が傲慢になり自然が人類の為に有るとして地球を破壊し自らの首を絞め神の怒りをかっているように思えてならないのです。どのように考えてもわたしには理解が出来ません。

このように神が人間を創造したとするキリスト教、イスラム教、ユダヤ教などの教えを信じている人が世界の宗教人口の約55%もいるのです。

 

世界の平和と人類の幸せは宗教統一が出来ない限りは訪れてはこないのではないでしょうか。

人類の宗教統一は難中の難のようです。