わたしとは御先祖様の宿業を一身に背負った身です。
もしかするとこれが自分であるなどと御先祖の宿業の継続抜きでは自分などないのかも知れません。しかし一方、我々はこの自分は御先祖の宿業のあらわれであるなど考える事無く生きている自分があります。
どちらが真実であるかというと御先祖の宿業の結晶が自分であるという事の方が真実ではないかと思えるのです。
しかし人間はその真実を考えようともせず、自分は自分がつくったかのようにしか考えられずに生きています。
人間の知恵とは何と浅はかなのでしょうか。
京都の永観堂の「みかえり阿弥陀如来」は有名です。そのお姿を岡部伊都子さんが現代風に解釈されておられます。
・自分よりおくれる者たちを待つ姿勢。
・自分自身の位置をかえりみる姿勢。
・愛や情けをかける姿勢。
・思いやり深く周囲をみつめる姿勢。
・衆生とともに正しく前へ進むためのリーダーの把握のふりむき。
自分自身を振り返り見て下さい、それが人間として生きる要である、と語られておられるようです。
人間は考える葦であるとはパスカルの言葉です。この考えるとは自らの命を考えるということではないでしょうか。