煩悩即菩提という言葉があります。その言葉の煩悩とは当然ですが自らに煩悩が有る事を認識し自覚しなければ煩悩は成立しません。
自らの心の中にどうする事もできない煩悩が存在していると自覚してこそ煩悩のあることが明らかになり菩提の佛さまの世界が到来するという言葉なのでしょう。
知人にパキスタンの社長さんや創価学会の信者の方がおられます。どんな素晴らしい教えがあったとしても他の教えを多分否定されます。
イスラムの社長さんは一日に三度、お祈りをするそうです。
創価学会の知人も朝晩にはお題目を称えているのでしょう。
他の教えに引きずり込まれない様に自らの教えの信心こそが素晴らしく真理であると自らを信じさせる為の祈りになっているのではないでしょうか。
両者共に疑うことを悪であると思える所まで自らの心を縛っているのではないでしょうか。
云うならば盲目の信者こそがこの教えの真なる信者であると自らを思い込ませているのではないだろうか。
疑う心を無くせよと自らに言い聞かせ祈っているのです。
疑い心のない盲目の信者であり真理とはかけ離れた似非宗教にはまってしまっているのです。
疑うとはこの教えに真実はあるのだろうか、真理の教えとしては何処か可笑しいのではないかと疑う心とは自らの真理を追究しようとする純粋性から生まれるのです。
その教えが素晴らしい教えだとしても最も崇高な教えなのだろうかと疑う事の中にこそ真実の教えがあるのです。
疑う心があってこそ真理の教えが自らの心に夢と希望と生きる勇気が与えられるのではないでしょうか。