大晦日は酔っぱらって除夜の音を聞かずに寝てしまいました。
煩悩の数は108個とも八万四千とも言われています。
果たして鐘を打つことで消せるのでしょうか。
加持祈祷で燃やしてしまおう、としても火が消えてしまえば、昨夜、灰の中に入れて沈めた炭が火箸で開くと又、勢いよく燃え盛るように少しの間、死んだふりをしているだけなのです。
到底、幾ら修行をしたからといって滅せるものではないのです。
そのような気持ちになったとしても、その気持ちがすでに煩悩から生まれているのではないだろうか。
こびりついて離れないのが煩悩なのです。
ボランティアで有名な尾畠春夫さんがおられます。
人の為に尽くす事を喜びとしている純粋で菩薩様のような人だとおもいます。
彼の言葉『いただいた恩をお返しするのは当たり前、それが人の仁義です。
どのような形で恩を返そうかと考えたとき、第二の人生をボランティア活動にささげようと決意しました。
「かけた情けは水に流せ。受けた恩は石に刻め」。
好きな言葉です。
ですから対価は一切求めません。』
確かに素晴らしい人生です。
私には到底そのような心境にはなれません。
わたしのボランティアというと、駅前の掃除を毎日50分位ですが20年以上させて戴いています。
しかし必ず、やってやっている、という気持ちが生まれてしまい高慢になってもしまうのです。
気付いたのですが、その時こそが地獄なのです。
その地獄に落ちた時の為に念仏があるのだと思えたのです。
地獄は一定棲み家ぞかし、のどん底に落ちた所に御仏が待っていて下さるのです。
何とかたじけない、勿体ない不思議な出来事なのでしょうか。