サザンオールスターズ
「稲村ジェーン」(1990)
桑田さんの声には、絶対おかしな成分が含有されてると思う。
阿片か何かが。
この人が歌うと、たとえどんなに下品な曲でも心の針が振れてしまう。
ただでさえそんな人を狂わせるような甘美な声を持っているのに加えて、えげつないぐらい人の心の深部をエグり回すような歌詞と曲を書くでしょ。
天才の所業と言ってしまえば簡単だが、ボクは桑田さんに、それだけには留まらない鬼畜じみたサディズムを感じる。
根底に優しさが流れているのは当然だが、その優しさが、かつてない程の残酷さを孕んだ悲しい曲を生んでいる。
ただただ阿呆のように聴いてる者にしてみれば、それはもう単にズタボロの精神を、更に痛め付けられるだけの奴隷調教のようなものだ。
快感ゼロ、ただの地獄。
故に、ボクは桑田さんを究極のサディストだと思っている。
そんな桑田"サド"佳祐が、己の潜在意識の底の底まで掻き出して、鬼畜の限りを尽くした、ある意味V&R作品のような、誰もが知るサディズムの極北的名曲「真夏の果実」。
こんな曲を人工的に作ったらアカン。
プルトニウムですよ、こんなもん。
超有名な曲なので、わざわざ歌詞を書き出したりはしないですが、とにかく世間では切ない曲の代名詞のように言われていますね。
でもこの曲はもう切ないって言葉では片付けられないぐらい、悲しい、残酷、絶望的、果ては非道とまで思ってしまう(ボクだけか?)。
そこまで言うのなら、何も自分を追い込んでまで聴かなきゃいいと思われるかも知れませんが、ボクが毎日毎晩この曲を聴くのには、それ相応の理由が存在する。
精神が不安定な時、現実逃避は非常に大切なことだとボクは考える。
何を置いても、まず現実から目を背ける。
これをしなけりゃ人は、狂う。
自分が本当に辛いと思った時は、一日中テレビ見るもよし、センズリこき倒すもよし、ギャーギャー喚き散らすもよし、首吊って死ぬもよし。
傷付いた人間は、自分が少しでも楽になる為なら、多少他人を傷付けようが、人殺しやレイプさえしなければ大概のことは許される。
しかし、こんなことばっかりしてても埒が明かないのも事実。
これからも生きていくのならば、しっかりと現実と向き合うことも、現実逃避と同じぐらい大切なことだと思う。
ここまでは、世間で識者と呼ばれるような方達が、神妙な面持ちでほざきそうな教科書的意見だが、ボクの場合はここからが違う。
キチンと現実と向き合った上で、これからは心を四重ロックの指紋認証で固く固く閉ざし、どいつもこいつも俗物だという基本概念を生涯忘れぬよう、心に深く刻印する。
人間という生き物はかなり脆い。
少し優しくされると、その見せ掛けを真に受けて、上述の基本概念を簡単に忘れてしまえる。
そんな愚かしい過ちを二度と繰り返さぬよう、何度も何度もこの曲を聴くのだ。
自分の中に存在する悲しみや絶望を全て掘り起こし、ゲロ吐くぐらいまで自分を追い込んで、痛め付けて、戒める。
そうやって他人への期待を一つ残らず棄てていくのだ。
「真夏の果実」がサディズムの極北であるとするならば、精神がズタボロの状態でそれを何度も聴くには、人は敢えてマゾヒストにならねばならない。
勿論、そうしたところで快感など微塵も期待出来ないし、ただただ苦しい。
しかし、その苦行を耐えて耐えて耐え抜けば、この曲をいくら聴いても一切何も思わなくなるだろう。
その時、人が手にしたものは"幸せ"だ。
心を固く閉ざし、人類皆俗物という基本概念を自分に深く刻み込むことによって、後の人生に何の期待も寄せず、"傷付けられる側"から"傷付ける側"の人間に回れるという、最低最悪の幸せ。
この最低最悪の幸せをボクは喜んで受け入れる。
最高の幸せなどこの世に存在しないのだから。
ってなことを、至極マジに考えてしまえる自分の脳ミソを、誰かピストルで撃ち抜いて粉々にして欲しい。
「稲村ジェーン」(1990)
桑田さんの声には、絶対おかしな成分が含有されてると思う。
阿片か何かが。
この人が歌うと、たとえどんなに下品な曲でも心の針が振れてしまう。
ただでさえそんな人を狂わせるような甘美な声を持っているのに加えて、えげつないぐらい人の心の深部をエグり回すような歌詞と曲を書くでしょ。
天才の所業と言ってしまえば簡単だが、ボクは桑田さんに、それだけには留まらない鬼畜じみたサディズムを感じる。
根底に優しさが流れているのは当然だが、その優しさが、かつてない程の残酷さを孕んだ悲しい曲を生んでいる。
ただただ阿呆のように聴いてる者にしてみれば、それはもう単にズタボロの精神を、更に痛め付けられるだけの奴隷調教のようなものだ。
快感ゼロ、ただの地獄。
故に、ボクは桑田さんを究極のサディストだと思っている。
そんな桑田"サド"佳祐が、己の潜在意識の底の底まで掻き出して、鬼畜の限りを尽くした、ある意味V&R作品のような、誰もが知るサディズムの極北的名曲「真夏の果実」。
こんな曲を人工的に作ったらアカン。
プルトニウムですよ、こんなもん。
超有名な曲なので、わざわざ歌詞を書き出したりはしないですが、とにかく世間では切ない曲の代名詞のように言われていますね。
でもこの曲はもう切ないって言葉では片付けられないぐらい、悲しい、残酷、絶望的、果ては非道とまで思ってしまう(ボクだけか?)。
そこまで言うのなら、何も自分を追い込んでまで聴かなきゃいいと思われるかも知れませんが、ボクが毎日毎晩この曲を聴くのには、それ相応の理由が存在する。
精神が不安定な時、現実逃避は非常に大切なことだとボクは考える。
何を置いても、まず現実から目を背ける。
これをしなけりゃ人は、狂う。
自分が本当に辛いと思った時は、一日中テレビ見るもよし、センズリこき倒すもよし、ギャーギャー喚き散らすもよし、首吊って死ぬもよし。
傷付いた人間は、自分が少しでも楽になる為なら、多少他人を傷付けようが、人殺しやレイプさえしなければ大概のことは許される。
しかし、こんなことばっかりしてても埒が明かないのも事実。
これからも生きていくのならば、しっかりと現実と向き合うことも、現実逃避と同じぐらい大切なことだと思う。
ここまでは、世間で識者と呼ばれるような方達が、神妙な面持ちでほざきそうな教科書的意見だが、ボクの場合はここからが違う。
キチンと現実と向き合った上で、これからは心を四重ロックの指紋認証で固く固く閉ざし、どいつもこいつも俗物だという基本概念を生涯忘れぬよう、心に深く刻印する。
人間という生き物はかなり脆い。
少し優しくされると、その見せ掛けを真に受けて、上述の基本概念を簡単に忘れてしまえる。
そんな愚かしい過ちを二度と繰り返さぬよう、何度も何度もこの曲を聴くのだ。
自分の中に存在する悲しみや絶望を全て掘り起こし、ゲロ吐くぐらいまで自分を追い込んで、痛め付けて、戒める。
そうやって他人への期待を一つ残らず棄てていくのだ。
「真夏の果実」がサディズムの極北であるとするならば、精神がズタボロの状態でそれを何度も聴くには、人は敢えてマゾヒストにならねばならない。
勿論、そうしたところで快感など微塵も期待出来ないし、ただただ苦しい。
しかし、その苦行を耐えて耐えて耐え抜けば、この曲をいくら聴いても一切何も思わなくなるだろう。
その時、人が手にしたものは"幸せ"だ。
心を固く閉ざし、人類皆俗物という基本概念を自分に深く刻み込むことによって、後の人生に何の期待も寄せず、"傷付けられる側"から"傷付ける側"の人間に回れるという、最低最悪の幸せ。
この最低最悪の幸せをボクは喜んで受け入れる。
最高の幸せなどこの世に存在しないのだから。
ってなことを、至極マジに考えてしまえる自分の脳ミソを、誰かピストルで撃ち抜いて粉々にして欲しい。