先日、某有名チェーン飲食店に行った。
ボクはたまにその店を仕事の休憩中に利用することがあるのだが、毎度毎度、入店と同時に熱いお茶が振る舞われる。


それがどうしたと思うだろうが、ここでボクのホット飲料に対する考え方というと大層だが、そのようなものを少し語らせていただく。

ボクは基本的にはホット飲料なんて存在しなくてもいいと思っている。
ただ例外的にコーンスープは好きだ。
季節関係なく飲めるもんなら飲みたい。
でもまぁコーンスープって今や自販機でも買えたりするが、正確には飲料って感じじゃないでしょ。
メインの料理の添え物みたいなポジションだったのが、意外に好評で一人立ちしたみたいな。
それがたまたま"飲む食べ物"だったって感じ。
それが証拠にレストランなんかで頼むと皿に入ってるでしょ。

あと冬場に外でタバコを喫いながら飲むホットコーヒーも美味い。
しかし別に無きゃ無いで一向に構わない。
無きゃコーラでも烏龍茶でも代替品は幾らでもある。

以上が強いて言うならば必要かなぁと思うホット飲料で、それ以外は全然いらない。
一般的にはケーキと熱い紅茶とか、和菓子と熱いお茶とか、鰻重と熱いお茶なんかが好まれるが、全部フツーの冷えた茶でよくないか?
むしろ冷えた茶の方がええわ。


そんなボクだから入店するやいなや熱い茶が出てきた日にゃ、京都での御茶漬けのように「お帰りください」と言われているようでムカムカしてくる。

初めは店の概要は伏せておこうと思っていたが、もういい。
これから書こうとしていることをより理解していただく為に(あくまでも理解促進の為であって、決して腹いせなどではない)書く!
牛丼屋だ、牛丼屋。

冬場ならまだ分からんでもない。
凍えた体を暖める意味で熱いお茶を欲する人もいるでしょう(ボクは要らないが)。
しかし、夏場でも出してきよるでしょ。
全店舗かどうかは知らないですよ。
でもボクが入った店は、まぁ~出してきやがるわけですよ、真夏に熱々のお茶を!!
謂れなき罰ゲームか?
何が悲しくて金払って罰を受けにゃならんのだ。
わしゃ希代のマゾヒストか!
要らん!そんなもん!

んでまぁ仮に冬場だったとしてもだ、熱々の牛丼(これはケチのつけようがないぐらい美味い)を熱々の茶でなんか食えるかい!
喉がただれるわい!
確かに熱いのをハフハフしながら食うのは美味いよ。
でも茶も熱いことによってハフハフが2乗になっちゃう。
ハフハフは程よくしないと味そっちのけになってしまう。
ハフハフ9味覚1みたいなことになったら本末転倒でしょ。

本来一番いいのは、まず熱々牛丼かきこみハフハフ、そして冷えた茶を流し込み喉がジュンワーですよ。
ハフハフ・ジュンワーの連続で最後まで食い続けたいものでしょうが、人として生まれてきた以上は。


んで最近はボクみたいに冷えた茶を欲する人もいるせいか、テーブルに常設されているポットには冷えた茶が入っているのだが、相変わらず入店時には熱い茶を振る舞ってきよるんですよ!
勿論店内にはその冷えた茶を飲む為の、ご自由にお取り下さい的な空のコップなんて見当たらないですよ。
何なの?
じゃあ何かい、我々は熱い茶を飲み干したら冷えた茶を飲んでもいい権利を与えられるのか?

まぁぁ~百歩譲って、そんなに熱い茶を振る舞いたいのなら、それは許そう。
でもそれをするなら、熱い茶と冷えた茶の両方を初めから振る舞い、我々にどちらを飲むか選択させんかい!
もしくは先にも述べた通り空のコップ置いとけ!

ってこんなこと言ったら「店員に言ってコップ貰えばいいじゃん」とか言われそうだが、そうじゃないじゃん。
忙しそうな店員捕まえてそんなん言うのも気が引けるし、何よりダルいわ。
こっちは疲れて喋りたくもないんじゃい。
あと最初に出された熱い茶を取り敢えず飲み干さないと、何か男として下に見られるような気がする。
「ふ~ん。あんた熱い茶の一杯も飲めないんだぁ~。お子ちゃまね」的な。
だから何だかんだ言っても飲みますよ、ボクは。


でも最近気付いたのだが店内で周りを見回すと、意外にみんな熱い茶で熱い牛丼を平気な顔して食ってんのな。
ボクはそんな無駄に強靭な舌と喉を持ち合わせている奴等をデリカシーが欠けているとすら思うし、心底見下しています。
以前から思っていたことだが、世の中は二元論で溢れている。
やったやらない、有り無し、善か悪かなど。
もしかするとキッチリしないと気が済まない日本人の特性かもしれないが、それにしても溢れている。
実際のところ世の中はグレーなことが90%以上だとボクは思っている。
条件を絞っていくことにより、白なのか黒なのかが明確になっていくが、いかんせん投げ掛けられる"問い"が雑だからグレーにしかならない。
日本人という生き物は最終的にはキッチリしたいくせに、肝心な問い掛けを雑な感じでこちらへ放り込んでくるのだ。

その代表例が「自殺は肯定すべきか否か」という問題であろう。
こんな雑な問い掛けがあるだろうか。
その対象が"ギャンブルでの借金で首が回らなくなり"自殺した人と、"学校でのいじめが苦で"自殺した人では心持ちも違うだろう。

もっと条件を絞らないとダメだ。
確かに人間の死というのはすごくデリケートな問題だし、自ら命を断つという行為は悲しむべき事実かもしれない。
だからこそ本当に慈しむべき死とクズみたいな死を、自殺というテーマで乱暴に一括りにしてはいけないんじゃないだろうか。
きちんと条件を絞り、コイツはクズだから死んで然るべきだ、コイツはもっと周りが気付き救ってあげなければならなかったと差別化を図らないと。


と、まぁここまで割りと重いテーマで書いてきたが、実は本当に書きたいのはこれからなのだ。
ボクは先に述べた通り二元論はナンセンスだと思っている。
しかし、そんなスッカスカの二元論界に風穴を空けるような画期的な二元論をボクは知っている。
このフォーマットに当て込めばこの世の全ての物質や事象が、二つある内のどちらかに必ず該当する。
それは何か?

「ロックかロックじゃないか」

である。
一切ふざけてはいない。
至極本気で言っている。
ひどく抽象的な表現のように感じるが、全然そんなことはない。
なぜならロックの意味はロックでしかなく、これ以上噛み砕いて説明することは出来ないからだ。
つまり使う人間を選ぶ言葉である。
ロックという言葉の意味を肌で感じることが出来る人間のみが使うことを許されるのだ。
ロックとは体感するものであり、説明などは不可能だ。
勿論この場合のロックとは音楽的な意味ではなく、精神的な意味を指している。
よってロックを普段聴いているだとかいないだとかは関係ない。
解る奴は感覚として解るし、解らない奴は一生かかっても解らない。
そりゃあ使う人間によってロックの基準も変わってくるであろうが、その誤差は僅かだろう。
解る人間の間ではロックの基準には殆どブレがない。
そこも凄く良いと思う。

ボクは日常の中で選択を迫られるような岐路に立たされた時、必ずこれを考える。
そして今のところ間違いはなかったと思っている。
ロックじゃないものには必ずと言っていい程、策略や罠がある。
それを回避出来るのがこの二元論だ。


ボクがこの二元論を推薦する理由はもう一つある。
それは何かと言うと、「それらしく聞こえるような二元論」を唱える輩が蔓延しているということだ。

「俳優には二種類しかない。松田優作かそれ以外だ…」

「感情というのは二種類しかない。絶望かそれ以外だ…」

「止まったら死ぬんじゃ~」

など。
そこにツッコミを入れたりしようもんなら、美談を汚すなだの、無粋なことをするなだのとゴチャゴチャとカスみてえな奴が言ってくるから、受け入れるしかないのだ。
こんな理不尽な二元論の蔓延を食い止める為にも、数多ある二元論をロック二元論だけに一本化しようじゃないか。


「それはロックかい?」
ジョン・レノンの口癖だったそうだ(嘘)。
浜田省吾の1986年発表の名盤『J.BOY』に収録されている「想い出のファイヤー・ストーム」という曲がある。
あるイケてる大学生のカップルが卒業後結婚し、やがて喧嘩ばかりになり、昔、二人で浜辺で囲んだファイヤー・ストーム(焚き火)の想い出なんかを振り返り、もうあの頃のようには戻れないんだね、でも悲しむことなどないのさ…的な曲である。
この曲を聴いていて、ボクはある出来事を思い出した。
これから記す話は目黒ガソリン版「想い出のファイヤー・ストーム」である。


小学3年の時のクラスメイトにK君という、所謂ちょっぴりヤンキーの男の子がいた。
K君はスポーツ万能で男前だったので女子にモテたし、硬派なところもあったので男子からの信頼も熱かった。

ところが、ある昼下がりの授業中、学校の近くで火災があり、消防車のサイレンの音が教室の中まで聞こえてきた。
かなり長い間サイレンの大きな音が響いていたので、学校からごく近い距離で火災が起こったのは見当がついたし、教室の窓から煙が上がっている場所が少しではあるが確認も出来たので、おおよその位置も把握出来た。
もうこうなってしまうと教室内は授業そっちのけで、教師の制止も虚しく、ギャーギャーとやかましい生徒達の動物園状態になる。
文字通り火が付いたように狂喜する生徒達の中に件のK君の姿もあった。
K君は確かに普段から調子に乗りやすい性格ではあったが、その日は一段とその性格が爆発していた(火だけにね)。
ボクも狂喜の渦中でギャーギャー言っていた一人ではあったのだが、そのK君の度を超えたはしゃぎっぷりを何故か冷静に見ていたのを覚えている。
K君っていつもそんなに騒いでたっけなぁ、なんてことを考えていたら、ふと燃えたのってK君の家じゃねぇのか?という変な予感めいたものが脳裏をよぎった。
しかし勿論そんなことを口に出すはずもなく、また元の狂喜の渦の中に身を任せた。

やがて事態も沈静化し、授業が再開された。
するとまもなくしてボクらの教室に教頭が脂汗を浮かべながら走ってきた。
そしてなんとK君を手招きでちょっとと呼ぶのだ。
その瞬間、ボクはさっきの自分の予感が的中したのを悟った。
何?って感じの呆気に取られた表情で教室を出て行ったきり、K君がその日教室に戻って来ることはなかった。
なんでも後で聞いた話によると、親御さんが揚げ物を料理している間に電話が鳴り、少し目を離した隙に起こった事故らしい。
今思えばK君のあのイカれたはしゃぎっぷりは、後に訪れる惨劇の前の最後の打ち上げ花火(火だけにねPart2)のように感じられて仕方がなかった。
虫の知らせとは少し違うが、何か見えないところで念のようなものが働いているとしか思えない不思議な体験だった。

その事件がきっかけでK君は程無くして転校した。
親御さんが隣町だかどこかに新たにマンションを借りたらしい。


そして数年後、ボクは中学1年になり、すっかりそんなことも忘れていた夏休みのある日のこと。
ボクは当時、塾に通っており、同級生でヤンキーの親分的存在だったN君(このN君の話も今後書く予定でいる)も同じ塾に通っていた。
N君は小学校時代からの幼馴染みで、すごく優しい子だったので、ボクがヤンキーとは全く無縁の人生を歩んでいようが、そんなことは全然関係なく、それなりに仲良くしてくれた。
そんなN君といつものように授業が終わり、下駄箱で靴を履き替えていると、急にN君が
「Kって覚えてる?あいつ今、外で待ってんねん。今から俺ら一緒に遊びに行くねん」
と言った。
ヤンキーのネットワークとはすごいもので、ケータイの普及もままならない時代でありながら、N君はどのタイミングで、どこでか知らんが、K君と連絡を取り合っていたのだ。
ボクはへぇ~と言い、会うのなんて何年振りだろと思いながら塾を出た。

すると塾の外にはN君の言っていた通りK君が立っていた。
外はもう暗かったが、K君の髪が金色になっているのが分かった。
ボクの中学当時は夏休みとはいえ、なかなかそこまで明るい色に髪を染める子は珍しかったので、一目見てすぐにヤンキー街道まっしぐらであることが見てとれた。
あぁ~、やっぱそうなっちゃうのねぇ~と感慨に耽りながらも、久し振りっと軽く挨拶を交わした。

それから三人で他愛もないことを少し喋ってから塾を後にした。
帰る道すがらK君がおもむろにポッケをまさぐり、あろうことかタバコを取り出した。
「アンタ火で痛い目見てんのに、そんな早くから喫っちゃうの?」と思っていたのも束の間、気持ち良さげに"どや顔"でスパスパ喫い始めた。
コイツどうしようもねぇなぁ~と思いつつも、まぁヤンキーはタバコ喫わなきゃ始まんねぇもんな、と妙な納得もしていた。

しかしその後、タバコの話題が弾み、テンションが上がったK君は何を思ったのか、自分の腕にジッポのオイルを垂らし、そこにライターで火を付け、"昇龍拳"だか何だか格闘ゲームの技の名称を叫びながら、腕を振り回して火を消すという奇行を何度も繰り返した。
「えぇ~!お前マジか?ナンボほど頭悪いねん!」と思ったが、K君はそんなボクの気持ちを余所に、すごく楽しげに青春を謳歌していたのだった…。


ボクは今でも目を閉じれば、あのファイヤー・ストームを鮮明に想い出すことができる。
K君の腕の周りを刹那に囲い、燃え盛っては消えていった嵐のような炎を。