こんにちは、絶學無憂です。
前回からの続きです。
呪(のろい)さんと名乗る方から、「自己弁護してるあんたが一番エゴに取り憑かれとるわな。」とコメントを頂きました。
他の言葉に対しては、反応しなかったのですが、「エゴに取り憑かれとる」には反応してしまいました。
「エゴを持っていてはならない」
という観念を持っている、ということも自分でわかったのですが、これは絶対的真理なので、どうしようもない。
それで、仕事をしながらでしたが、グルグルと頭の中で同じことが回っておりました。「エゴを持っていてはならない」と考えてもしょうがない、とか、「エゴを持っていてはならない」と考えてはならない、とか、(世間一般の人が普通にとる対応だと思いますが)意識的な思考のレベルで対処しようとしても、ビクともしませんでした、というところまでが前回でした。
元はと言えば、私が依頼者の方に不用意な質問をしたことで、傷に触れてしまい(いわば「爆弾」を爆発させてしまい)信用をいっぺんに失った、ということがあり、その事件を記事にしたところ、今度はそれを読んだ別の人の傷に触れてしまい(また爆弾を爆発させてしまい)、今度はその方(呪さん)のコメントが私の爆弾を爆発させた、という、一連の誘爆が起こっているわけです。
通常はこれを、自分の持っている爆弾(観念)のせいだとは考えず、相手の言葉のせいだ、と考えて、怒りが相手に向かって報復をしたり、ということで失ったバランスを取り戻そうとするわけですが、これだと負の連鎖です。ゆくゆくはこういう応酬が戦争を生み出しているのだ、とも思っています。
最初は私のほうが世間一般でいえば「加害者」側の立場でしたが、呪さんのおかげで「被害者」側の立場もこうして体験させてもらうことができたわけです。言葉や内容は違えども、起こっていることはまったく同じだと考えられますから、「このように両方の立場を体験できるというのはありがたい」、「お互い様だな」、とグルグル思考の中に居ながらも考えており、心がザワザワしてはいますが、相手をどうこうしよう、という気持ちはあまりありませんでした。
とはいえ、常識的な対処法で、頭でああだこうだ言い聞かせても、やはりそれくらいではどうにもならない、というのも、3時間位経過して仕事も終わりの時間でしたし、もう充分にわかった!、という気になってきたので、帰る前にそろそろなんとかしよう、と思いました。
このブログで普段お伝えしているようなことを「実際にお前やってみろよ」と試されているような気持ちもありました。
レイキやキネシオロジーだと、誰でもすぐできるというわけには行かないので、調整法としては誰でもすぐ使えるもの限定として、般若心経の真言を使ってみようと思いました。
ストレス度は変動していましたが、最大で10でした。
ぎゃーてーぎゃーてーはらぎゃーてー
はらそうぎゃーてーぼーじーそわかー
真言を唱えて、ちょっと減ったような感じはありますが、あまり変わっていないようでもあり、しばらくするとまたグルグル思考が始まります。
ぎゃーてーぎゃーてーはらぎゃーてー
はらそうぎゃーてーぼーじーそわかー
二回目ですが、やはりあまり変化しません。
この真言は、試したらすごく効いたという人もいれば、効きませんという人もいて、何が違うんだろうなと思っていたのですが、自分自身でやって効かない、っていうのは初めてでした。
そっかー、効かないのだとちょっと困ったなと思いました。ここまでは放置してきたけどもグルグル思考が続くのは嫌だ、はやくなんとかしたい。
ここで、気がついたのですが、この二回目までは、「エゴを持っていてはならない」という観念とそれに付随する感情が「不要物」(実際そうなのですが)であり、「不要物を捨てたい」「邪魔なものを処分したい」というような気持ち、設定でやっていました。
エネルギーは意図に従う
という原則があるので、どんなツールも、どんな思いで使うかによって切れ味が変わる。
「しんどいしもう要らないから捨てよう」「問題を取ろう」という意識のレベルが低いんじゃないかと思いました。
そこで
「この感情が教えてくれているメッセージを受け取って極性を再統合しバランスを回復する」
というようにゴールを設定して三回目を行いました。
ぎゃーてーぎゃーてーはらぎゃーてー
はらそうぎゃーてーぼーじーそわかー
一呼吸おいて、さっきまでのネガティブ感情を探しますが、どこにもありません。
ゼロです。
「エゴを持っていてはならない」というさっきまで絶対真理だと信じていた観念ですが、もうそうは思わず、そして意外なほどすぐにメッセージへの気付きがやってきました。
私がやっていたこととは、
「エゴを持っていてはならない」と信じることによって
エゴの多い人間を低く観て、エゴの少ない人間を高く観る
すなわち、
エゴの多い少ないという二元性の極性を勝手に作っており、
この二極の間で感情の振り子を揺らしていたのです。
で、たしかに呪さんの言う通りで、こうやって二元性の中で分離させて物事を観る、っていうのはエゴの働きですから、
私のエゴが、エゴの多い少ないで極性を作ってた
と言えるでしょう。
エゴの多い少ない(大き小さい)ということは事実としてあるでしょうが、それを直線的なものさしで観るのではなく、
そうは言ってもみんな尊いひとつの命(ワンネス)の一部なんだ、とこういう風に丸く観る、イメージですね。
悟り体験者の賢者テラさんが、自分はこのように丸いものさしで世界を観ている、と証言しています。
呪さんが読んで反応した記事は、私が「エゴを持っていてはならない」という観念を持った状態で書いたものなので、そこにはやはり分離エネルギーが働いていて、呪さんはその部分に敏感に反応して、「おい、無憂さんよ、あんたこんなの持っているよ」とわざわざ教えてくれた、と言えるでしょう。
もう一度呪さんのコメントを読み直しますが、ただの文章のように感じます。
そしてここまではっきりと気づきが起こると、呪さんに対しても、むしろ感謝の念が生じてきます。だって、教えてくれなければ気づきようがないようなことだったんだから。
次回は、この後どうなったか、です。
(業務連絡ですが、最近は仕事が忙しくなったため、感情解放のサービスは受付を休止中です。ご了承ください。)