こんにちは、絶學無憂です。

 

前回の続きです。

 

幼児期に親から虐待を受けたという依頼者の方で、「諦め」というまさに積年のテーマがあり、あちこちのカウンセラーやヒーラーのところへ行って巨額を費やしてきたが、どうにもならない。0から10のスケールでこの「諦念」の強さは「10以上」だということでしたが、5分間の遠隔レイキを13回行って、この感情ストレスや、これに関わる観念、そしてゴールへの抵抗がすべて0になりました。

 

 

しかし、セッションが終わった後で、私があまりにも能天気に、やや不躾なことを聞いてしまったためにそれだけでいっぺんに信頼を失ってしまったのでした。

 

もともとはこういう感じで、ココロの中に爆弾の山があったとします。

 

 

遠隔レイキによる感情解放で、爆弾撤去が進み、どうやらこんな風になっていたようなんですね。

 

 

ところが、私の中のイメージではもう山はなくなっていたんです。

 

そこで、気軽にボールを投げたら……残っている爆弾にぶつかって爆発が起こってしまった、ということです。

 

前回の記事を読んで、なぜ私の2つの質問でそこまで依頼者の方が感情的に反応したかわからない、というご感想も頂きました。私も最初はわからなかったわけですが、これは簡単に言ってしまえば、その爆弾は本人だけのものだから他人にはわからないわけです。

 

実は自分でこれ(必ずしも誰もが同じように反応するわけではない、つまり感情の原因は、外側の出来事ではなく、自分の中にある爆弾である)に気がつくことが、爆弾撤去のための第一歩だったりするのですが。

 

一般的な意味では、あるいは法律的には、「加害者」「被害者」という図式がありますね。「自分は被害者だ」という意識でネガティブ感情を体験している人は数多いと思うのですが、(加害者側の場合は罪悪感を体験することになりますね)、私はこの「被害者」っていう概念はとんでもない心の毒だと思っています。

 

一般的な意味で言えば、今回の最後の最後のところの件では、私が加害者で、相手の方が被害者で、おそらく相手の方もそういう認識であるはずです。一般的な意味では、私も軽率だったと思います。

 

ところが、これで私が謝罪して(謝罪しましたが)何が起こるのかを考えると、「被害者である私は充分に謝罪を受けて当然である」という観念を満足させて終わりです。この爆弾の山のほうがほんとうの原因であるわけですが、そういう見方には至らないので、これに対しては手つかずのまま残ってしまいます。

 

 

なので、ヒーラー・セラピストという立場から見ると、本当に考えるべきは残っている爆弾の山をどうするか、なんですが、この事件によって、そういう話がもうできなくなりました。

 

 

私が加害者側の立場なので、これを書くと、ややこしくなる可能性がありますが、立場が逆で、私が誰かに何かを言われて逆上したような場面でどうするかというと、一旦はちゃんと怒ります。相手に謝罪を要求するようなこともあるかもしれません。その辺はフツーです。

 

ですが、一呼吸置いてから、「あ、自分はまんなかから大きく外れて、感情の振り子が揺れだしたな」と見極めます。やはりネガティブ感情を体験していると不快ですから、ずっとそこにいるのは嫌で、そういう気づきがどこかのタイミングで入ります。

 

感情 = 出来事 × 観念

 

という公式から考えると、そこには必ず何か私が勝手に思い込んでいる観念が関係しているはずです。相手とか出来事そのもの、なんかどうでも良かったな、という認識になります。

 

あとは、いろいろ引き出しの中にあるのでどれを使うかはその時次第ですが、観念の手放し、感情解放を行って、感情がゼロになるのを確認して終わりです。

 

そして、ここまで来ると、何かしら私が怒るようなことをしてくれた人や出来事に、感謝できるようになります。だって、それが無ければそこにそんな要らない思い込みを自分が抱えているとは到底気がつくことはできなかったんですから。わざわざ面倒くさいことをしてまで、それを教えに来てくれたんだな、とわかるわけです。

 

ついでに言えば、こういうのすべてがこの世界=仮想現実世界の「仕様」・「仕組み」なんだな、という理解です。

 

 

本来はこういう方向へ展開するのがのぞましいのですが、この件では、謝罪で終わってしまったために、残された山が手つかずのまま置かれることになってしまいました。

 

これって実は、爆弾の山の立場から見ると、願ったり叶ったりなんですよ。すんでのところで、「周辺にもまだ爆弾の山が残っていますから別のテーマで感情解放しましょうか」「お願いします」なんていう展開になると、本当にこんな風になってしまうでしょう。

 

爆弾の山の立場から見ると、これを何とか阻止することに成功した、となります。

 

「爆弾の山の立場」ってなんやねん?って思いました?そんなもんあるのかと。

 

 

あるんですよ。

 

エゴと呼ばれることが多いです。エゴっていう言葉は色んな意味で使われるので混乱する方もおられるでしょうが、私はエックハルト・トールの考え方を採用しています。詳しく知りたい方は名著「ニュー・アース」をお読みください。

 

ざっと紹介すると、エゴというのは、幻想である時間軸上にのみ存在し、実在である現在には存在できないもの、観念から生じる感情エネルギーを餌にしている分離意識の化け物、みたいなイメージで捉えています(最後に本を読んでからだいぶ経つので、かなりいい加減です)。ある程度はこれがなければ、分離意識がなくなってしまい、この世での現実的な生活ができないようなものですが、この化け物が増大することで、分離意識が強くなり、ネガティブ感情をいっぱい体験するようになります。瞑想によって、今ここへ戻ることで、この化け物から主導権を取り戻そう、っていうのがだいたいエックハルト・トールの教えです。

 

エゴというのは、分離意識の幻みたいなもので、本来存在していないもので、根本的な存在の不安を常に抱えています(それに対して、実在しているものは宇宙で唯一つの意識、ワンネスと言われたりしますね)。エゴにとっては、エゴが消滅することが最大の恐怖なのです(もちろんこれが人間の死の恐怖と繋がっています)。ですので、あの手この手で、あなたが今ここへ立ち戻るのを阻止しようとします。

 

あなたの意識と、エゴ(思い込みの化け物)とは本来全然別物なんですが、「一緒だ」と勘違いされているのが普通です。

 

今回、山に大きな穴を開けるのには成功しましたが、完全撤去作業はまんまと阻止されてしまった=エゴにとっては願ったり叶ったり、となります。

 

それにしても、なぜ私はセッションが終わったときにこんなイメージを持っていたんでしょうか?

 

これは私自身の体験によるところがあると思います。あるテーマについて感情解放をした後は、山がなくなっているというイメージがあるのです。特に昨年の5月以来は、多少の一時的な感情の揺れはあるにはあるのですが(無感情になったというわけではない)、基本的には山がない感じなんですね。

 

自分の体験では思い出す限りだいたいそうなっていて、

 

こんな風にちょっと外れたところにそのまま残っている、という例はあまり思い当たらないんです。

 

ところが、今回の依頼者の方だけではなく、最近私が感情解放をした相手の方から感想を聞く機会が、他にも三例くらいあったのですが、どうもまずいことに、いずれの場合も

 

ではなくて、

 

 

という感じなんだそうです。ガーン

 

これはちょっとヒーラーとしての力量不足を感じるところです。

 

感情解放の照準範囲というのがあると思うのですが、それが私がイメージしているよりも相当狭くなってしまっているようです。これは、依頼者の方がイメージしているテーマがここからここまでという範囲が元々狭く設定してあるからなのか、セッションを始める前に、照準範囲を広げるように誘導すべきなのか、それとも私の側の意識設定が狭くなっているからなのか、いずれにせよ今後ちょっと改善の工夫が必要な気がします。

 

このようになってしまうと、「そもそもそんな山があったんだっけ?」という感覚になるので(こういう感想をいただくことももちろんあります。本当にそんな感覚になるので、記録をつけておくのが大事です。)、こういう大穴は空いているけど、ちゃんと両脇が残してある、っていうほうが、感情解放の効果があったというのが分かりやすい、といえば分かりやすいでしょうね。すっごい不自然な形になってますから。

 

 

 

このシリーズはこれで終了です。

 
お読みくださってありがとうございました。