前回からの続きです)

 

私の理解はずうっとここで止まっていたのですが、ここへ来てようやく気づいたのは、これはあたかも私と他の人との関係のようでいて、過去の自分との関係を投影しているんではないかということです。

 

お気づきの方もおられるでしょうけど、要はまたしてもこれですよ。


 

苦労して得たスキル、っていうところが厄介で、学んでいるときは私なりにかなりのコンプレックスや、悔しい思い、恥ずかしい思いをしながら乗り越えてきたわけです。

で、どうも、そのときの自分を労り切れていないので、「同じ苦しみをお前たちも味わうべきだ」というように感じているようです。そこから「それをせずにわかりにくい英語を話し続けているお前は怠慢だ」と続くのです。

さらに加えて、それ以前の、英語がまだペラペラでないときの自分を私は見下しているのだと思います。これが他人へ投影されると、「嗚呼、この人の英語は分かりにくい。音素を勉強すればいいのに。無知だな」というようにやはり見下してしまう。やはり、留学初期の、英語が通じないもどかしさ、辛さ、恥ずかしさがあって、この時の感情が残っているのでしょう。そのときに、私は自分に低い評価をやはり下してしまった。

英語のできない辛さが分かるのだから、他人へ共感できても良さそうですが、1000時間の学習で克服したという成功体験があるために、むしろ「なんで私と同じように努力しないんだ?」と考え勝ち。低い評価の過去の自分と、ペラペラの今の自分との間に分離があります。「俺はもう、あんな英語の下手な昔の俺じゃねえんだ」みたいな感じ

英語が上手い(陽)、英語が下手(陰)という二元性の軸ができてしまって、その左端に今のペラペラの私がいて、右端に昔の自分や、同じように通じにくい英語を話す人達がいます。

ところが、ペラペラの私でも、今でもネイティブと話していて、己の不足を感じることは当然あります。発音はあまり壁になっていないのですが、ネイティブの教養人と比べると語彙力がかなり不足しているのです。また、TOEFL満点とは言え英語を読むのがまだまだかなり遅い。そして、そういう場面で自分の非力を感じると、さっきまで得意満面で左端にいた私が、ビューンと一瞬で右端の方へ飛ばされてしまいます

このようにして、両極の間を揺れている、というわけです。

 


そして両極の間を揺れている限りは、(いくらペラペラになってみても)ほんとうの意味での平安はないのだ、というのがなんとなくお分かり頂けるでしょうか。

留学4年目で、もうペラペラだと自負していた頃に、illustratorという単語がネイティブに通じなかったことがありました。アクセントの正しい位置を知らなかったのですが、illustrator(イラストれいタ; 太字の第三音節にアクセント)と発音したらまったく通じず、しばらくやり取りした挙げ句、ああ、illustrator(ラスレイタ; 太字の第一音節にアクセント)のことか!と言われました。初期の頃はこういうことばかりだったんですが、久しぶりにまたやらかしたわけです。その時の相手はかなり仲の良い人でしたが、私は一挙に彼を相手に感情を爆発させて怒鳴りました。ま、よほど自分に腹が立ったのでしょうね。このときも、軸の左端(ペラペラ)から右端(下手)へと一時的な急転落を経験したのでした。

この事件でも明らかなように、私はペラペラだといって左端にふんぞり返っていながら、その裏側には常に転落への不安があるわけです。これが、極性の分離という二元性の世界です。ただ単に2つが分かれているのではなくて、この両極の間に感情エネルギーが作用しているのがなんとなくお分かりいただけますか?

さて、ここで、私が今のペラペラの自分と、昔の英語がきれいにしゃべれないダサダサの自分とを、もう一度統合することができたら、どんな世界観になるでしょうか?これによってついにこの英会話にまつわる喜怒哀楽の世界から解脱することが可能なのでしょうか?

おそらく、統合した後でも、二元性の世界に生きている以上、場面によって再び劣等感を味わうような経験はなくならないでしょう。ですが、過去の自分と統合できていたならば、そのときの振れ幅が小さく、比較的かんたんに真ん中へ戻ってこられるのではないかと予想します。そして何より、過去の自分と統合できていたら、他人をジャッジする必要が無くなるのでより自由にコミュニケーションが取れるのではないかと思います。さあどうでしょうか?

 

次回へ続く。