即興的に目にふれ注意を惹くものを歌にする、
または今後どうなるか、関心や期待をもって見守ること、
を属目と言うのだとか。


ブリコラージュ(即興)をフランスの文化人類学者のレヴィ・ストロースさんは、
科学を知らない人の科学、
と呼んだそうだけれども、
今手元にあるものだけで何かを作り出すことができるということは、
なんとも器用仕事というわけで。


ああ今年も残り1ヶ月かと思うと、
この時間を何かに変えていこうとするのかは、
その人の即興如何によるのかと思うとなんだか切ないもので。


$5udaのブログ-属目
たまにはボーっとまわりを眺めてみると、
なんだか心を惹くものと出会って何かを即興したくなるのかも。




2013.11.25
プラトンは、
美はすばやい、早いものほど美しい。
といい、

ゲーテはファウストで、
美しいものよ、しばしとどまれ、
と表現していた。


同じところに3ヶ月も住めば感動は薄くなりがちで、
かといえば、
そこを発つとなればまた切なく恋しくなるのは、
不思議なものなのだけれども、
そんな中でも美と出会う回数と濃さは、
その土地をさらに個人の中で非日常的なものに創り直されていくものなんだろうか。


非日常的な環境はいずれ終わりがくるだろうから、
日常という忍耐のなかで、
非日常的な行動の機会を淡々できたらいいのにな。


$5udaのブログ-美
よく彼らはしばしとどまれという時間をおいていく
ことばに残らないそんな瞬間がたまらなく心地いい



2013.11.19
行動と忍耐というのはどうも切っても切れない関係のようで。
剣道でいう動と静なんだろうか。


機が熟すという結果には、
行動とともに忍耐しなければいけない時間が伴い、
その機を今か今かと待つことによってその行動がまた次の行動に繋がるものなのかも。


1つの目標にむかって進むとき、
ことばというのは行動を鈍らせ、
忍耐を退屈で湿ったジメジメしたものに変えてしまう力があるような。


濃密で高貴な行動や忍耐の時間を、
ことばを駆使してわざわざ無駄にする必要はないようにおもう。


そういえばファウストの冒頭には、
博士が物事のはじめは何から始まるのかと考えていた。


聖書ではことばありきと記されるらしいけど、
博士は行動なのではないかと結論付けていた。



$5udaのブログ-機
動という昼と静という夜



2013.11.18
自分がもってる表現で自分の関心を伝えるというか、
こないだ行った印象派展でのリュスさんの鋳鉄工場というタイトルの、
人の熱気とか勢いが目の前にいくと伝わってくるものでした。

印象派というのは、
なんにしても光の輝きだとかそういうものを大事にするものらしく、
やっぱり風景画が多いみたいですが、
彼はそういった絵ではなく日常生活の人に興味をもっていたそうで。

ここの展覧会で飾られていた絵師の誰かが、
ある一定の秩序に基づいて集められた色彩による平面と、
言っていたけれども、
リュスさんにとっての秩序というのは、
閲覧する人に伝わるか伝わらないかは別にして、
そこにいる人たちの息遣いや感情を現したかったと、
勝手に解釈できるのも自分にとっての美術館の1つの楽しみ方です。


$5udaのブログ-工場
額縁に収まらないものも描きたかったのではとまた勝手に解釈した



2013.11.13
重要なことは食べることよりも飛ぶこと、
といううたい文句で有名なかもめのジョナサン。

現代版の星の王子さまと当時は絶賛されたんだとか。

ちょっと上から目線なところは気になるけれども、
それでも好奇心を沸き立たせられる内容だし、
短いからすぐ読めた。


こんな一文があった。

かもめの一生があんなに短いのは、
退屈と恐怖と怒りのせいだということを発見するにいたった。
その3つのものが彼の心から消えうせてしまったのち、
彼は実に長くてすばらしい生涯を送ることとなった。


確かに3つにのみ縛られた生活なら、
窮屈で息苦しくて真っ暗な下水管の中での生活みたいだけど、
だからといって一生涯それがないといえば詰まらないし味気ない。
なんだか、
退屈は新しい習慣をつくるし、
恐怖は思慮深くなるし、
怒りは行動に移っていくものなのかも。


ただ、かもめのジョナサンはきっとこんなことも考えて飛んでいたような気がする。


$5udaのブログ-かもめ
ケニアのそらにいた鳥



2013.11.11
アフォーダンスというのは知覚心理学の分野のもので、
説明なしにそれをみれば知覚してそれをうまく扱えるということで。

ドアノブが付いていなく金属片があればそれを押して入り、
タンスの引き手はそれを引くことを意味し、
赤い信号は止まれだし、
言葉と矢印が同じ場所に列挙されていたらそれは→に目がいってしまうし、
それに色なんかついていたら、尚そこに注視してしまう。


目印というのは目的があってはじめて使われるものなのだし、
そこにはちゃんと目印の結果が当人も分かっているから信頼関係の基本があって、
成り立つものであるのかと。


音や温度や形、匂いや感触、色など理解を助ける手段には、
実にいろいろな方法があるのかと思った。


ただ言葉というのは群を抜いてそれに値するんだろうけど、
時として上記に挙げたものは言葉以上の意味があることもある。


$5udaのブログ-目印
人の流れというのもときに目印になるのかな
本の折り目や日記というのもある意味で自分の記憶を思い出す目印なのかもしれない


2013.11.10
こないだ行った美術館には多くの印象画と呼ばれる絵画が飾ってありました。

シスレーさんのロワン川という作品をみたときに、
遠くからは綺麗な風景画にみえるし、
光の加減や景色の雰囲気というものがしとしとと伝わってきた様な気がしたけど、
近くで眺めるとそれは多くの筆跡が沢山残っていました。

なんだかそれは絵画の筆先の行間というべきなのか、
絵の具のついた絵筆の先のひとつひとつのキャンパスに触れる作者の息遣いというか、
こう描けばこんな風に遠くからは綺麗にみえるんだとすごく感動しました。

筆跡を残すことは美ではないと当時揶揄された印象画の人たちですが、
別してすべて残すことが大切ではないと思うけど、
印象画の人たちでなくとも、
今自分が何を考えているのかとか、
何を想っているのかという筆跡を残すことは、
正直な行いなのかもしれないなと思った一日でした。


$5udaのブログ-筆跡
他人には全部同じにみえる白色のタッチだって、
彼にとってみれば全部いろんな感情の混ざったものだから違っていたかもしれないし、
やっぱり彼にとっても同じ白色の筆跡だったかもしれない



203.11.7
11月の3連休には本の街、神保町で古本まつりなるものがやっていました。
誘われるように入っていく路地裏には、
いつか学生の頃によく出入りしていた道や古ぼけた本屋が立ち並んでいて、
そういった記憶も思い起こしてくれました。


アランやダンテの古書、フルトヴェングラーのレコードは、
この街が教えてくれたものでした。


椿姫でよくよく出て来たマノン・レスコーも見つかり、
本を読むことで新しい本と出会えるということは、

http://www.ted.com/talks/lang/ja/meg_jay_why_30_is_not_the_new_20.html?source=facebook#.UnjOfgocSCz.facebook

のメグさんのいう、
アイデンティティ・キャピタルを築く一端でもあるのかと思いました。



$5udaのブログ-古本まつり
ふと目に入った手塚治虫を手に取ると、
ページをめくる手がなんだか喜んでいるように感じました


2013.11.6
先日、モネの絵画展にいってきました。

そこではモネとか、シスラーとか、ブーダンとかの絵とともに、
彼らの背景もよく分かる構成になってました。

不況の中、絵は売れないし、
妻には先立たれるし、
ようやく開かれた舞台の最後には、
白内障を患いながらも絵に没頭したモネさん。


睡蓮が好きで30年も描き続けたそうだけど、
日本の橋と表された絵画には説明がなければどこに睡蓮があるかも分からない。

わたしは色彩がみえなくなった。
ただそこに色の塊と線とがみえるのだ。

というようなことを語りながら描かれたこの絵画を直に目をすると、
そこにはくっきりとモネさんの筆跡が残っていました。



$5udaのブログ-太鼓橋
自宅にかけた日本風の太鼓橋からはどんな景色がみえたんだろう



2013.11.4
清々しく忍ぶことができれば、
どんなにいいかと最近思った。

どうしても耐えていかなきゃいけないことは、
これまでもこれからもあるということは、
子どもでも知っていることで、
だけれどもその失敗を繰り返してしまうことで時折立ち止まってみたり。


僅かな時間のはずなのに、
永遠にその冬のような期間が続くものだと思い込んでしまう頃には、
それがいつの季節だったかも忘れてしまうぐらい、
身体も気力も憔悴しきっているのだから。


忍ぶには時間も場所も忘れるような、
そんな日常が必要なのかもしれないし、
そんな日常がほしい。



$5udaのブログ-忍ぶ
花だって飛ばされたってまた花を咲かす


2013.10.30