先日、乃木坂にある国立新美術館へ。
http://www.nact.jp/


ゴッホ、スーラ、モンドリアルという方々を代表にした作品郡がありました。


ゴッホという名前しか知らないでいったわけですが、
絵の価値など分かるはずもないわけですが、
大分楽しめました。


当時流行していたらしい写実主義とか遠近法とは違っていたため、
揶揄された意味で印象派と名づけられたみたいですが、
彼らは自分がみえた色や輝きや温度感といったものの混ざり合いを表す技法として、
それを選んでいたそうで。


分割主義の先駆者として当時最先端の発見だったらしい色の補色を徹底的に分析して、
点描で描いていたジョルジュ・スーラさんやポール・シニャックさんの若人を、
彼らは有益なものを私たちにもたらしたし、彼らはきっと新しい芸術をつくるはずだ、
と擁護し世にでるきっかけを作ったカミーユ・ピサロさんの粋な決断に惚れ惚れし、


マクシミリアン・リュスさんやヤン・トーロップさんの、
過酷な環境下における人々への哀れみや同情を
描いたいくつかの絵がなんだか心に残りました。


表現方法としてのこだわりは、
他者や社会と切っても切れない関係なんだろうけど、
そんなことも気にも留めながら、
何かをこだわってる人は勉強しているんだなーと、
他人事のように上の空のまま美術館を後に。


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点描画は真面目で我慢強いタイプの人がやるような気がした
ゴッホはそれじゃ飽きちゃってそれでもその筆触分割の法則を利用して、
ミレーが忘れられず種まく人を描き続けたみたい
絵をみてもそこまで感動しないだろうから、
なんだかそんな境地が羨ましい


2013.10.29
己惚れというものがまるでなかったら、この世に大して楽しみはありますまい、
という一文で始まる三島さんのショートエッセー。

己惚れは毎日を幸福にさせるし、
毎日をウキウキ過ごせることができる方法だとも。

それは美男美女も、
しいては顔をあきらめた人は己惚れを知能や名声に移して、
病人も犯罪者もすぐ裏には己惚れがまつわりついているとか。


逆に謙遜というのはみのりない果実であることが多く、
偽善者だともここでは言っていた。


またたえずウソをつく見栄ん坊はいつも自分のもっていないものを意識して、
それを糊塗(ごまかし)して、背伸びするから己惚れ屋みたいにカラッとせず、
ジメジメしてるとも。


そんな己惚れにも陰性と陽性とがあって、
陰性の己惚れは総じて立場や力量を知った謙虚家の猫かぶりであることが多く、
陽性のそれは人をワクワクさせ楽しませる要素があるのでは、とも。
(彼は石原慎太郎とか岡本太郎を挙げていた)


とりあえず彼は精神衛生術としてこの己惚れを挙げたようで、
なんて自分は鼻が低いんだろうと思うより、
なんて自分の鼻は可愛いのでしょう。米の整形美容はみんな高すぎる鼻を削っているんだわ、
と思うほうがいいとも。


一時的なものだったとしても、
たまにはこういう時間が必要なんだろうし、
増してや己惚れてる自分を認識できてれば俄然己惚れは精神的な栄養になるんだと思う。
他人と社会との関係性は切っても切れないけど。


$5udaのブログ-己惚れ
なんていい写真なんだと思ってればいつまでも写真を撮れるんだから、
どっちが自分に得かと言えば撮り続けることだと思う


2013.10.28
ルカ伝福音書には放蕩息子の巧妙な譬え話があるそうで。

そこにはある二人の兄弟がいて、
弟は大の遊び好きで父親に催促して自分だけの財産を受け取り、
さっさと遠い国へ行って放蕩の限りを尽くす。

無一文になったところで、
誰も相手にしてくれなくなった状況になってから
自らの非を悔い、また父の元へ。

父は夢かと思いたいそう喜んで、
小言どころか最上の衣と手には指輪、靴も与え、肥えた子牛で彼を歓迎した。

さて、そこへ野良仕事から帰ってきた兄はこの不公平な有様に父へ苦言。

だけれどもそこで父は、
お前はわしと一緒に暮らしているのだからわしの物はみなお前の物も同然だ。
ところでお前は弟は一度死んだ子が生き返ってきたんだよ。
わしが喜ぶのはだから当然ではないか?
と答える。


差別された人や罪人を受け止める寛大な心を謳った物語みたいだけれども、
この話を読んで、ああ習慣というのはなかなか変え難いものなんだなと思った。

兄の立場でいえば、自分はよくよくいい習慣で過ごしてきたのだから、
別して自分の今までの生活と兄弟とはいえ他人と比べる必要はないし、
そこで何か憂うものがあるなら兄自身の価値を下げてしまうような気もする。

弟は弟で九死に一生を背負いながらまた帰ってこれたのだから強運の持ち主なんだろうけど、
そこまでしなければ習慣というものはなかなか変わってもくれなかったようで。

いい習慣の同義語が清々しさなら、
対義語の鬱陶しさを感じる日々はいい習慣ではないのかもしれないな。


$5udaのブログ-習慣
質実な生活で知られるミケランジェロさんは
こうやって食べてるものとかスケッチとかをよく手紙の裏に書いていたんだとか
何気ない習慣はよくその人を現す特徴になっていくのかも


2013.10.27
先日、ミケランジェロ展をみに上野にいってきました。
昔、ロマンロランさんが書いた三部作のうちの1つ、
『ミケランジェロ』を読んだのだけれども、
内容は全くは思い出せませんでしたので、もう一度いつか再読しようと。


15歳でつくられた階段の聖母やケンタウルス、
30代ではシスティーナ礼拝堂の天井画(当時失明する人が多かったらしい)に取り組み、
60代でその礼拝堂の正面の大壁面に従事する。


なかでも亡くなる直前まで取り組み続けたピエタという作品には、
友人がロンダニーニのピエタが好きでその話をしてくれていたから覚えていた。
4作品あるらしいけれども、
この展覧会にはキリストの磔刑と表される木彫りの作品があった。


美を追求して、
未完である状態はその美を象徴するみたいだけれども、
意味は分からないけどみていて好きな作品だった。


$5udaのブログ-ピエタ
「完璧」な主張は「美」と少し異なるのかも
何故だか未完にはより多くの意味があるように感じた


2013.10.24
またまた『潮騒』の主人公新治の弟宏がいるのだけれども、
彼は心優しい兄のおかげで兄も行けなかった修学旅行にいけたわけで。

京阪地方を5泊6日もするんだから、それは羨ましい。
島を出たことのない少年たちが一挙に広げるその世界はふとした瞬間に出るんだろう。

円太郎馬車という乗り合い馬車をみた彼らはこう叫んでいた。


「ほう、大きな犬が雪隠を引っ張って走っとる!」
そしてこう続いていた。

島の子どもたちは、教科書の絵や説明で、本物の代りにまず概念を学ぶのであった。
電車や大ビルディングや映画館や地下鉄を、
ただ想像の中からつくりだすことはどんなに難しかったろう。
しかしさて実物に接してのちは、新鮮なおどろきのあとで、
今度はその概念の無用さがはっきりしてきて、島で送る長い1年のあいだに、
今も都会の路上にさわがしく行き交うているであろう電車のことなどは、
思ってもみなくなるのであった。


よく未知の経験をしているからといって、
それを子どもたちに伝えてはどうか、
そうしたら彼らもまた逞しくなるだろうし、
そういう経験があるから強くなれるんじゃないか、
等々言う人もいるけど、全くの見当違いだと思う。

確かにそういう世界を知る一端ではあるんだろうけど、
彼らにはそして自分たちもそれぞれの立場でいろいろなことに面していて、
未知の話を聞いたところで、そんなことは概念でしかないんだろうから。

概念が経験を勝るのは想像力なんだろうか。
でも、大事なことは案外身の回りにすべて揃っているのかもしれないのかな。


$5udaのブログ-雪隠
インドの雪隠
当時の記憶や感動はどこへ行ったんだろう
きっと細胞のどっかが覚えているんだろうけど



2013.10.23
またまた三島さんの本だけれども、
読み終わった『潮騒』はなんだか他の本とは違った印象をうけた、
というのも、スラスラ読めてしまうし、難しい解釈も必要のない恋の牧歌というか、
そんなテイストだった。

ただ読み深めるには彼の生きた背景とか、
前後に書き下ろした作品からいろいろ感じる人もいるらしいけれども、
文明から確立され孤絶した、
それも海の青々した情景が思い浮かべられる南の小島を舞台にした内容は、
自分の好きな景色はなんだったかという質問を度々聞かれているような気がした。


主人公の新治は漁師の息子で育ってからは、
彼が母と弟との家庭を支える心優しく礼儀や道徳に恩寵あつい力強い青年で、
対する初江もまた、
品と美貌とまた教養も兼ね揃えた少しお転婆な女性として描かれていた。


決して認められない出会いだったが、
その中で二人は肩を並べて真夜中の山道を歩くところで、
新治は初江に向かってこう言っていた。


「おれはいつか、働いて貯めた金で機帆船買うて、弟と二人で、
 紀州の木材や九州の石炭を輸送しようと思っとるがな。
 そいで母さんに楽をさせてやり、年をとったらおれも島にかえって、楽をするんや。
 どこを航海していても島のことを忘れず、
 島の景色が日本で一番美えように、(歌島の人はみんなそう信じていた)、
 またア、島の暮らしはどこよりも平和で、
 どこよりも仕合せになることに、力を協せるつもりでいるんや。
 そうせんと島のことを、誰も思い出せなくなるによってなあ。
 どんな時世になっても、あんまり悪い習慣は、この島まで来んと消えてしまう。
 海がなア、島に要るまっすぐな善えもんだけを送ってよこし、
 島に残っとるまっすぐな善えもんを護ってくれるんや。
 そいで泥棒一人もねえこの島には、
 いつまでも、まごころや、まじめに働いて耐える心掛や、裏腹のない愛や、
 勇気や、卑怯なとこはちっともない男らしい人が生きとるんや」


これを新治が18歳のときに語っているのだけれども、
こういうまっすぐな気持ちを持ってる青春時代というのはいいなと改めて思った。
14歳から続けている日記には後ろ向きで時には自尊心過大のうるぼれの塊のようなものが、
思い思いに表されているであろうから、こんな青春時代があればなと思うけれども、
反面新治だってこれから先が分からない。

ただ自分の故郷のきれいなものは、
どこにいっても忘れてはならないと思った。
それは老いというより、
愚かな生き方になってしまうような気がする。


$5udaのブログ-美えもん
潮騒は文字通り波の音とかを指すようだけど、
自分にとって美えもんは雪景色なんだとおもう



2013.10.22
教養に精神的なものがあるなら、
肉体的なものがあったっていいのかもしれない。

http://kotobank.jp/word/%E6%95%99%E9%A4%8A

では、
教養とは,一般に人格的な生活を向上させるための知・情・意の修練,つまり,たんなる学殖多識,専門家的職業生活のほかに一定の文化理想に応じた精神的能力の全面的開発,洗練を意味する。

と難しく説明されているんだけれども、
それはどうも時と場合と居る場所によってしばしば変化してしまうのかもしれない。


そういった精神的な教養はぐにゃぐにゃなものだったとしたら、
肉体的な教養というのは結局いつの時代になっても
ギリシャ彫刻のようなものを指すのかな。


あーランニングはじめて3年間か、
とふと振り返って思うとき、
学生時代別段身体を鍛えてこなかった無念というか残念さが、
今日もまた走ろうという原動力になってたりするのかと無理やりこじつけてみた。


$5udaのブログ-肉体的教養
教養は教養といっても肉体的教養は儚く20年後には残らない虚しいものかもしれないけど、
それもまたいいもんだと思う


2013.10.17
変わり目というのはどこかにあるのか、どこからか飛んでくるのか、
常にここにあるのかは知らないけど、確かにあるもので。

それは時間というものが自分にも他人にも分かりやすく教えてくれるものなのかもしれない。


ベルクソンさんは人は時計の時間を過ごしている訳ではなく、
経験の時間を過ごしているといい、
それを純粋持続と呼んでいたそうで。

バシュラールさんはそれに対して、
時間は瞬間の連続にすぎなくて、
よく分からないけど、
「瞬間瞬間をより高く深く生きる事が、よりよく時間を過ごす事となる」
という思想が彼の根底にはあるらしい。



薄っぺらい紙も積み重ねたら層になるように、
みえないそれぞれの時間の積み重ねもまた何かの変わり目となってみえてくるんだろう。



$5udaのブログ-変わり目
時間はどこに飛んでいくか分からないものなのかも


2013.10.14
コラムを読んでいたら、秋空にまつわる話が載っていた。

秋の季節の澄んだ高い空とさわやかな空気を言い表す中国の言葉に、
秋高気爽というものがあるらしい。

秋だというのに暑い気温が続くから、
なんだか身体的には秋の訪れを察知していないけれども、
木々や植物は来るべき季節にもう準備をしているらしい。

そのコラムにはある画家が秋の空をみて、
音楽をきいているような気がしたとあったけれども、
高く澄んだこの空にはどんな音色が響くんだろう。


$5udaのブログ-秋空
ラオスでは海がないからか、
海より深くではなく、
空より高いという表現だった


2013.10.10
『青の時代』の主人公川崎誠は父への徹した反感を胸に、
どこまでも合理的な生き方を貫いて一高・東大に進むものの、
詐欺で多くの金を失うと自らその類の金融会社を設立。

その彼と昔からの付き合いで常に共にする輝子という可憐で美しいらしい女性との会話は、
時に理解に時間がかかってしまうのだけど、
相手に遠慮のなくそしてお互いが尊敬しているような匂いもするものだから、
なんだかギコチナくないし読んでいて爽快感があった。


そろそろクライマックスというところでこんな会話があった。

「あんたは不真面目だな。中略
 不真面目だよ。あなたは人生とちゃらんぽらんな関係しか結ばない。
 人生が悪戯っ子をゆるすように微笑を以てあなたをゆるしていることに気づかないんです」

 中略

「誰も人生と確かな関係なんか結べる人はありませんわ。
 中略
 お金を観葉桶に投げ込むときだけに、わたくしは人生と関係をもちます。
 裏切りという関係を。
 ・・・お金があるべきところになくなって、
 ある筈もない場所へ移る瞬間が、私にはほとんど酔うような心地がしてよ。
 そういうとき、私は自分の作った人生の結び目を、
 自分の作った小さな神様のように崇拝しますわ」

「僕のはじめ考えたことは、あなたに似たようなことだった。中略
 愚劣さが救われたと思われるのは一瞬にすぎない。
 不真面目さで愚劣さを救うという企ては、
 質屋の番頭を寄席へ落語をきかせにやって、
 心の洗濯をさせるようなものにすぎません。
 僕はもっと永つづきのする方法を考えた。
 それは目的を忘れてしまうことです。中略
 征服に憧れている。
 僕に云わせてみれば、軽蔑する権利を得るための戦いが、征服です。
 ある価値を征服したいと思う僕の目的は、
 ただただその価値を軽蔑したいためにすぎません。
 ところで僕の処世訓は、目的を忘れてしまえということだな。
 中略
 軽蔑したいという欲望は、精神の肉慾のようなものなんです、
 精神は肉体を生むことができないから、
 獲得の欲望の代わりに殺戮の欲望をもつようになるんです。
 『精神の高み』なんて言葉は大嘘ですね。
 『精神の凹地』とでも言い代えるべきだな。
 そこで精神の目的を忘れているあいだは、
 われわれは多少とも人間らしく振舞えるわけだ。
 哲学の先生が八十まで生きていられるのは、
 八十年間哲学の目的を忘れていられたからだ。
 とりもなおさず哲学のおかげでね」

「そうかしら。あなたは忘れることなんか決しておできにならないように見えますわ。
 忘れる才能をもった人は、はじめから物事を考えてやったりしはいたしません。
 そういう人たちは目的より行為を忘れ、
 行為の向こう側でいつも昼寝をしていられるおかげで、
 よく太って真赤な頬をしています。中略
 あなたの行為はあなたから仕方なしに落ちるのです。
 あなたの行為は記憶の剰余なのね。
 だってあなたの体験はいわば濃すぎるので、
 それをうすめるために行為の水が要ることになるにすぎません。
 体験というものははじめからうすまっていなければ人を苦しめます。
 あなたが目的とよび、忘れるための目的と名づけていらっしゃるものも、
 未来のものではなくて過去のものです。
 あなたは使命感にうなされて、幼年時代をおすごしになった方のような気がしますわ」

 中略
 
「驚いた人物論だ。」

と誠は感情的に言いながらも、

「人生が多すぎる気がする」
「人間の能力の果ての果てまでたどり着きたいといつもあせっている」
「却って自分の人生がいつでも少なすぎるという幻想に悩ませる」

と吐露する。


$5udaのブログ-結び目
結び目に嬉しくなり悲しくなる
きつく結んだそれはいつまでも解けないように思えて解けるし、
簡単な結び目にみえてなかなか解けない


2013.10.9