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現代の僧侶階級
どれだけの悟りを得ているのか、救済力があるのか、疑問。
見識が高いと信じられているマスコミや言論人。
彼らの言うことを聞いていたら、世の中が地獄になる。
死後、地獄へ行く僧侶やマスコミ連中は多そう。
宗教指導者やオピニオンリーダーたちが地獄的
こういのを末法の世と言う。
管理人も悟りとか救済に興味があるが。
「苦界のこの世での憂さ晴らしのために」研究・発表している。
「言うことを聞きなさい」と言う気も無ければ、読者の死後に責任をとる気も全くない。
「耳障りのいいことを言う候補者。そちらの方がいいのなら、どうぞその人に投票してください」
「耳障りのいいことを言う宗教者。そちらの方がいいのなら、どうぞその人に従ってください」
宗教だけではなく、思想一般
「朝鮮人はかわいそうだ。彼らの人権を保護しなければならない」
「日本は侵略した悪い国。永遠に贖罪を続けなければならない」
これも宗教の教義の1つ
坊さんとは脱社会です。脱社会をした人が集まったところを「サンガ」と言ったのです。お堂、集団という意味です。
僕はそのようなものの考え方をしています。現代の坊主に、「一銭ももつな!」と言っているのではありません。原点はそこにあるということを忘れてはいけません。
仏教とは何を説いたものでしょう。これも原点です。お釈迦様は最初に何を説いたのでしょう。それすらわかっていません。仏教とは四諦の法門を最初に説いたのです。四諦の法門とは何でしょう。「四つの悟り」という意味です。「四つの諦」と書いて「四諦の法門」と言うのです。
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たい・諦、サテイア、真理
それは、「生老病死」ということを説いたのです。生まれるのは苦、生まれたものは必ず年を取っていきます。「いつまでも若くいたい」と思ってもどんどんと年を取っていくのです。年を取って老いていくことは苦痛です。最後は病気になります。これも苦痛です。死ぬときもまた苦痛です。癌になれば、全身に管を入れて麻薬を撃たれ、頭が狂い発狂して死ぬのです。痛みだけが止まりますが、頭が悩乱して真っ暗な部屋で死ぬのです。
「生まれるのも、老いるのも、病気になるのも、死ぬのも苦である」と悟るから、「四諦の法門」といいます。これが仏教の原型です。人生は生老病死の幕を追っていくのです。「僕は何とか苦しみのないように変わりたい。生まれるのも喜び。生きているのも喜び、病気になるのも喜び、死ぬのも喜び」このように変われればよいのです。仏教の救いとは、そのようなものです。
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執着を離すしか、ないでしょうな。
諸行無常と諸法無我を達観し。
救われようが、救われまいが、どのみち死ぬんだからいっしょか。
老子的にはそういう説明
責任という概念がないのね。