うぬぼれた悟りは地獄因 23-3   日蓮の本は難しい | たこなぐりの宗教ブログ

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永く見惑を断じ尽して三界六道に此の生の尽きて後生ずべからず。

見惑の煩悩無きが故なり、又此の教の意は三界六道より外に処を明さざれば生処有りと知らず、身に煩悩有りとも知らず又生因なく但灰身滅智(けしんめっち・肉体を灰にして智を滅す)と申して見も心もうせ虚空の如く成るべし習う、法華経にあらずば永く仏になるべからずと云うは二乗これなり」(一代聖教大意)

 

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管理人にはわかりません。

中杉先生の解説を読むことにしよう。

 

 

 以上は修行の果としての二乗(声聞・縁覚)論ですが、命を一念と見る立場からの声聞・縁覚とはどのような命でしょうか。私はこう考えます。
 我等凡夫の命は、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道を、車のように毎日毎日、いや瞬間・瞬間、輪廻しています。その人生に虚無を感じて、「何とか幸福になる道はないものか」と考えたとします。
 そこでお釈迦様の仏教にめぐり合い、仏陀の説法に一心に耳を傾けたならば、その命そのものが声聞であるといえます。
 さらに、仏教を学ぶにつけ、分分に悟っていくわけですが、仏陀の真意の奥深いのも知らず「我大悟せり」などと思い、一切の人の言に耳をかそうとしなくなれば、この命の正体こそ独覚・縁覚と知る必要があります。
 また大事な事があります。自然界に存在する命は、六道までという事です。いくら自然を感じても、そこから出てくる命の最高は天界の第六天(精神世界の満足)の果であり、声聞・縁覚は仏陀の胸中の一部から発しているということです。
 前世に仏陀の法の一分を修行して、今世に声聞・縁覚となったのですから、今世で仏陀を見ないといっても、声聞・縁覚になった真の原因はやはり仏陀にあるのです。
 いくら仏教を求めて、聞く耳を立てても、仏陀がおられ、あるいは経が無ければ何も聞こえるはずも無く、悟りようもありません。
 声聞にしても縁覚にしても、最初に聞いたのは「仏陀の説法ありき」だからであります。我等の凡愚の一念でも同じことで、仏陀の教法が無ければ声聞も縁覚も成立しないのです。
 仏道を修行する者の陥りやすい声聞・縁覚の二乗心を冷静にながめ、どこまでいっても慢心する事なく精進に励む事が大事です。

 

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