仏説観無量寿経 2   韋提希(イダイケ)への説法 | たこなぐりの宗教ブログ

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この世での生活状況

幽閉された韋提希(イダイケ)の前に釈迦が現れて説法する。
夫である頻婆娑羅(ビンビサラ)王もまだ殺されていない。
体に蜂蜜やミルキーを塗って、夫に食べさせていた。

実際にあった話かどうか不明だが、釈迦が説いている修行論が役に立つ。

(6) すると釈尊はにこやかにほほえまれ、五色の光がその口から輝き出て、その一つ一つが頻婆娑羅王の頭を照らした。そのとき頻婆娑羅王は、王宮の奥深く閉じこめられていたけれども、少しもさまたげられることなく心の目で遠く釈尊を仰ぎ見て、頭を地につけて礼拝した。すると心がおのずから開かれて、二度とこの迷いの世界に帰ることのない位に至ることができたのである。

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(7) そこで釈尊はイダイケに仰せになった。
「 そなたは知っているだろうか。阿弥陀仏はこの世界からそれほど遠くないところにおいでになるのである。だからそなたは思いを極楽世界にかけ、清らかな行を完成して仏になられた阿弥陀仏をはっきりと想い描くがよい。私は今、そなたのために極楽世界のすがたを想い描くためのいろいろな方法を説き、また清らかな行を修めたいと願う未来のすべての人々を西方の極楽世界に生れさせよう。その世界に生れたいと願うものは、次の三種の善い行いを修めるがよい。

 一つには、親孝行をし、師や年長の者に仕え、やさしい心を持ってむやみに生きものを殺さず、十善を修めること。

 二つには、仏・法・僧の三宝に帰依し、いろいろな戒めを守り、行いを正しくすること。

 三つには、さとりを求める心を起し、深く因果の道理を信じ、大乗の経典を口にとなえて、他の人々にそれを教え勧めること。

 このような三種を清らかな行いというのである 」

 釈尊は続けて仰せになる。
  「 イダイケよ、そなたは知っているだろうか。この三種の行いは、過去・現在・未来のすべての仏がたがなさる清らかな行いであり、さとりを得る正しい因なのである 」


(8) 釈尊はさらに阿難とイダイケに仰せになった。
「 そなたたちは私のいうことをよく聞いて、深く思いをめぐらすがよい。私は今、煩悩に苦しめられる未来のすべての人々のために、清らかな行いを説き示そう。イダイケよ、よくこのことを尋ねた。

 阿難よ、そなたはこれから私が説く教えを忘れずに心にとどめ、多くの人々に説きひろめるがよい。私は今、イダイケと未来のすべての人々が西方の極楽世界を想い描くことのできるようにしよう。仏の力によって、ちょうどくもりのない鏡に自分の顔かたちを映し出すように、その清らかな国土を見ることができるのである。そしてその国土のきわめてすぐれたすがたを見て、心は喜びに満ちあふれ、そこでただちに無生法忍を得るであろう 」さらに釈尊はイダイケに仰せになった。

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キリスト教では
「悔いあらためよ、神の国は近づけり」

仏教では
三種の清らかな行いをし、修行に励めば
『西方の極楽世界を想い描く』ことができる。

あの世の天国と地獄
どちらへ行くのかは「因果の道理である」と確信できれば、多少は現世の苦しみが軽減されよう。
普通の悩み。死ぬのは怖い。
死んでからが怖ければ、釈迦の言うことを聞きなさい。