歎異抄 第14章 念仏さえ称えれば極楽へ往ける? | たこなぐりの宗教ブログ

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「一回の念仏で、八十億劫という気の遠くなる長期間、私たちが造った重い罪が消えて、極楽へ往けると信じなさい」という邪偽について。

この邪偽は、十悪や五逆という恐ろしい罪悪を造っている者が、日頃念仏を称えていなくても、臨終に初めて仏教の先生から教えを聞いて、一回念仏を称えれば八十億項の罪が消え、十回念仏称えれば八百億劫の重い罪が消えて極楽へ往けると言っている。

お釈迦さまが念仏称えれば罪が消えると教えられたのは、一つは十悪より五逆が重いというような罪の重い軽いを教えるため、もう一つは、念仏を称えることに大変な功徳があることを分からせるために説かれているのです。

*
釈迦はこんなこと、言っていないでしょう。
パウロなら言いそう。
アーメンが好きな人だから。
「神よ、神よ」と常によびかけたい性癖

これは地獄で役に立つ習性
実際ヘドロのような地獄で押しつぶされたら、祈るしかできない。
重機や助けてくれる人もいない。

『念仏を称えることに大変な功徳がある』
霊的に見れば事実であるので、否定できない。
言葉よりも心理状態に意味がある。
「(地獄に堕ちて)私は何もできません。神様、お助けください」状態
「あなたは、ここからどうしますか」という問題。

「死後界や地獄なんか無い」という人は、歎異抄をバカバカしいと思うだろう。
なんちゅうレベルの低さ
議論の内容が、そう見えるでしょうな。


それなのにこんなことを言う者は、まだ阿弥陀仏の本願が信じられていないのだろう。
*
『こんなこと』
一回念仏を称えるごとに、八十億項の罪が消える。

「罪が消える」というより、神仏との縁ができる。
因縁果
これが無ければ、神仏も救いようがない。

そもそも「罪が消える」とか原罪
イスラエル地方の宗教の発想なのでは?

反省によって罪が消える?
というより、真我状態になる。
これも「この世目線で」違いを推測しているにすぎない。

反省と祈り
悟りと救済
相互乗り入れ自由